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[コメント] A2(2001/日)

「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」とニーチェは言ったけれど、住民達はその時怪物ではなかった。
新人王赤星

誤解を恐れずにいえば、オウムが社会的に悪と認知されたのは彼らが少数派だったからに過ぎない。事件当時、被害者数の桁が違ったら事態は違っていたという意見を述べた宗教学者がいた。もちろん世間からヒステリックに批判されたが、これは歴史で繰り返されてきた事実でもある。被害者数が増えていけばテロからクーデーターとなり内戦となり、そして勝利が認識される。「百万人殺せば英雄」で「数が神聖化する」から。正しい者が大義を得るのではなく強い者が大義を得るのは歴史を顧みるまでもなく、現状の世界を見渡せばわかること。数の論理によって正義は決められる。

人間は条件が揃えば敵を作り出し粛清する生き物だ。先の大戦で日本人がアメリカ人やアジアの人に対した時を思い出すまでもない。赤狩りや魔女狩りを例に挙げるまでもない。人間は人間を排除しても良いとする理念を作り出す。オウムが俗世界に対してそうだった。社会がオウムに対してそうだった。両者の違いは数である。人間は恐ろしい敵を自分の内からも作り出し、そして狂気にかられて敵を排除する。これがモンスターの正体だ。

事件後、多数派となった世論もメディアもオウムを徹底的に粛清・排除した。一億総憲兵化し、敵に対しては何をしても許される。魔女狩りの結果、河野氏や安田弁護士のような人が生まれ、国松長官狙撃事件のようなでっち上げ逮捕の失態に象徴される不当な権力の行使はオウムという問題において様々な解明するべき事実を闇に放った。秩序やモラルは目的の前には無効化する。オウムも世間も本質はさほど変わらない。

数の論理によって認められる狂気と否定される狂気がある。数の正義によって堂々と行なわれる粛清・排除ほど恐ろしいものはない。数の論理で社会に認知されれば民衆は公に敵を粛清・排除する。河野氏はそれを一番恐れている。一億総憲兵化をもっとも恐れている。だからオウムの為に謝罪の儀式にも付き合うのだ。マスコミが映さないその姿がこの映画にはある。河野氏は人間の狂気そのものを恐れているのだ。かつて身をもって経験している人間の狂気を。

誰もがオウムになり得るという人間性の事実を真摯に見つめない限り社会は何度でも新たなオウムを作り出す。単純な善悪の二元論と数の論理は危険だ。敵を作り出す狂気は、時に大多数の支持を得て、もっと巨大な悲劇を演出するから。

サリン事件まで、社会はオウムを隔離し排除し続けた。そしてオウムは密室で狂気を爆発させるまで育ませた。俗社会に対する彼らの想いと理念。。モンスターは生まれた。モンスターに怯える社会の側にもモンスターは生まれた。両者の違いは数である。

モンスターと対峙するとき人は恐ろしさのあまり自らもモンスターとなって対峙してしまう。世界は両者の争いによる悲劇を常に繰り返している。秩序もモラルも無効化した世界。どちらか片方に数による勝利が待っているかもしれないが、そんなものに正義はないし、次のモンスターの出現に対する予防や教訓にすらもならないだろう。

「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

群馬県藤岡市の住民は違った。住民は感じたはずだ。何故こんなにも真面目で話せる若者達があんな恐ろしい事をした組織に・・、どうやら人間とは誰だってモンスターになりうる生き物らしい・・と。オウムが特別なのではないし、私達はモンスターなどになる人間とは別なのだと考えるのはおこがましい思考停止だ。彼にも私にも存在するそんな恐ろしい人間性を認めるのは悲しく怖いけれど、そこをごまかさずに自覚してこそ悲劇を繰り返さない未来への希望がある。私達自身がいつモンスターを生んでしまうかもわからないのだから、その時自らに内在するモンスターに食われぬ強さを持つ為にも必要な自覚なのだ。名も無い藤岡市の平凡な住民の姿を見て、社会にまだ希望を感じる事が出来た。彼らはオウムを人間として扱い人間として接した。オウムの狂気(モンスター)に対峙する時、彼らはモンスターではなく人間だった。

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