コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] Death Note デスノート 前編(2006/日)

原作を愛する方々には不評な向きもあるそうですが、齢30にして少年ジャンプを購読しながら、この連載には見切りをつけた私にとっては、連載より得心のいく「仕事」でした。(連載の他、読みきりのネタばれあり。おまけに長いです)
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







少年ジャンプにあって、他の多くと同じく、読み切りに始まった連載でした。当初、主人公は、ノートを使うが自らの行為に恐怖し苦悩する、いじめられっ子の小学生であり、話は夢落ちで終っていました。

「Death Note」は弱者にとって普遍的な願望です。そして、いじめっ子を排除したいというミニマムな願望が、社会悪を根絶したいというマクロな願望に取って代わられた時、連載は誕生しました。大切なものを持ちながら、それを守りきれるだろうかという弱者としての自覚、理不尽な暴力に踏みにじられる恐怖と自分の無力に対する悔しさがあるなら、モテモテのエリート大学生も、読みきりのいじめられっ子に通底します。

だから、映画の前半、バーのシーンからノートを拾うまでのシークエンスで、ライトが自分の無力に打ちひしがれるシーンは大変重要です。連載の長さ、特に説明台詞の泥沼を考えれば、脚本段階の構成と取捨選択は気の滅入る作業だったでしょう。その中で、このライトのモチーフを原作以上に顕在化させたあのシークエンスを見て、個人的には、映画は取捨選択を間違っていないと思いました。

或いは、連載に見切りをつけたのは、このモチーフもテーマも見えなくなった頃でした。そもそも、ライトの端正な容姿や図抜けた技能は、国家権力やそれに代わるものからの現実的な追求に耐えうるステータスとして必要だったに過ぎなかったはずです。しかし、いつのまにかそれ自体が漫画の目的になってしまっていました。耽美が売りの小畑氏が画に選ばれた時点で想像できたことだし、娯楽としては間違っていません。

しかし、Lとの思弁ゲームがリアリティー、というより常識的感覚さえ見失いつつ、読んでいて気恥ずかしさを禁じえない読み物に堕していった時、モチーフとテーマもまた見失われていました。守られるべき者が守られる理想社会を標榜していたはずのライトが、神の代行人たる自覚に陶酔して行く展開はいいのですが、問題は、その過程で、自らの守るべき者を見失って行くことに、ライトも、作品も驚くほど無自覚だった点です。

当初、殺されて然るべき人間のみを裁く限りにあって純然たる正義たりえたライトにとって、Lと父の存在は、自らが産んだカルマでした。それに対した時、ライトは、ノートを捨て無力な一個に戻るか、大勢にとっての正義のために自らの正義を捨てるかという二者択一を迫られ、苦悩したはずなんです。と言うより、この読み切り時の主人公が持っていた苦悩が見えない「Death Note」なんて、面白くもなんともないと思うんですが、結局、少年ジャンプは超越者たるライトのキャラ売りに奔りました。弱者たる我らが代行人たる主人公は、いつの間にやら、痛いピカレスクに成り果てていたというわけです。

さて、映画にあっても、原作同様、観客が気がついた時、ライトはすでに選択済みでした。ただ、映画のクライマックス、美術館のシーンは、まるでライトに苦悩があるかのように思わせる構図になっていました。ライトは詩織を人質に取られ、南空と向き合います。恋人を殺された者が、殺した人間の恋人を殺そうとする。ライトはノートが使えず、叫ぶばかり。観客は、この皮肉な構図に巻き込まれ、一種の無情感を与えられますが、そう思っていたのも束の間、すべてがライトの仕組んだ茶番だったことを告げられ、足元をすくわれます。そして、ライトは原作どおりの超越者として立ち現れます。

一見原作どおりのライト像ですが、重要なのはこの後です。ことが終わり、恋人を失った悲劇の一般人を演じるライトは、死神リュークとのみ本音で会話し、そして、リュークに聞かれます。「詩織はおまえを愛していた。しかし、ライト、お前はどうだったんだ?」――愛する者まで犠牲にして、お前の守るべき者って何だったんだ?それを訊かれ、ライトは何も答えず、ただ何ともいえない表情をします。これが前編を結ぶことで、映画が独自の意味を、CGのリュークが存在感を獲得していたように思います。

もとより漫画原作の設定、やはりリアリティーの捻出には苦しんだと思います。にもまして、対象年齢に小学生を組みこむとなれば、過剰に生々しい演出はできない。また、ライトの高邁な台詞も生の役者に馴染まない印象があり、結果、原作同様、ライトが滑稽にも見えた前半でしたが、後半は役者がライトに良い意味での人間臭さを与えていたように思います。そして、演出は、最終的には、原作の超越者ぶりに抵抗を試みるものだったのではないでしょうか。そもそも、それが無ければプログラム・ピクチャーとして商品の体裁を保てないように思います。

難しいもんで、本当に楽しめる娯楽映画って、やっぱりどこかにテーマを保ち、しかも説得力のある答えを持っていないと駄目なんです。娯楽としての派手さもなければ、文学として評価されるレベルのものでも無いかも知れませんが、でも、原作の体裁を保ちながら、しかも二時間という映画のバイオリズムに変換し、そのバイオリズムに合ったメッセージを再構築して、そっと盛り込む。本当に難しいプロの仕事って、こういうことだと思います。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (5 人)tredair YO--CHAN 赤目 プロキオン14[*] 水那岐[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。