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[コメント] 大人は判ってくれない(1959/仏)

トリュフォーの語る現実は僕の見て来たものとほんの少し違っていて、それがすごくイライラした。当然違う人間の目に現実が同じ姿を現す訳はないので、そういう意味ではこの映画は成功しているかもしれないけれど、やはり愛すことは出来はしない。
れーじ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







何か色々むかついたので、今回は中高生の時の僕の恨みつらみをそのまま文章にして吐き出します。不愉快になる方もいるかもしれません。すいませんごめんなさい。

この映画に僕の居場所は無い。

何故なら劇中で「ぶりっ子」と謗られていた奴が現実の僕だからだ。

「いい子の振りをしている」のではない。「いい子でいなければならなかった」のだ。

そうでないとお前には価値がないと言われる様な気がして、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかったのだ。

そして価値が無いと言われればそれは自分の存在の死を意味した。自分に価値が無いのなら、そんな自分が生きていることにも意味は無いのだから。

そしてそもそも自分に価値などありはしなかった。特異な何かを持ち合わせているわけでもない、たった一人の子供である。自分がいてもいなくても、世界にとっては何の意味も無い。だから価値は無い。

だからその価値を認めてくれる誰かがいなければいけなかった。なら相手が大人であろうと誰であろうと関係ない。というか、それを与えてくれるのが当時の僕には親か教師しかいなかった。自分の生死は文字通り大人が握っていた。それは覆しようの無い事実に思えた。親がいなければ飯は食えず、学校を逃げ出したところで他に行くあてなどありはしなかったからだ。だから彼らにも自分にも分かりやすいものさしで、「自分が優れていること」を示し続けなければいけなかった。

当然、そんなもので納得できるわけが無い。成績は成績だ。それは単に努力の結果であって、そこに僕という個人の人格や価値観は反映されない。せいぜい「真面目な子」という枠でくくられるだけの話だ。だがそれでもよほどマシなのだ。そうやって褒めてくれるならそれはそれでありがたい事なのだ。少なくともそうすることでようやく僕は価値を持てる。そもそも世間一般程度の教育と人生経験しか積んでいない自分が、人格面で特に評価されるとも思っていない。

そしてだからこそ、オトナにむやみに反抗する同級生を軽蔑した。

そう――主人公。お前のことだよ。

「偉そうに」「ちょっと成績が良いくらいで」「いつも大人にへこへこして」そうやって陰口を叩いているのを知っていたが、僕に言わせれば偉そうにしていたのはお前の方だ。

世の中馬鹿に出来るほどお前は偉いんか?そんな大層なことをいつどこでやって見せた?

「大人は判ってくれない」とお前は言うが、じゃあお前は判ってもらう為の努力をしたか? それもしないで受身でいて判ってくれるとでも思ってんのか?

いや、それ以前にそもそも自分に「判ってもらう」だけの価値があるかどうかなんて疑ったことないんだろう?

「自分らしく」とか、「自由でいたい」とお前は言うが、その主体である自分自身がどれだけあやふやか。価値が無いのか。そこで悩む奴の気持ちがお前にわかるか?

わかるかよ。わかるわけねえだろ。わかってたらそんな甘えた泣き事言うわけねえもん。

てめえだけが悲劇の主人公と思ったら大間違いだ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)Orpheus カフカのすあま tredair[*] ぽんしゅう[*] けにろん[*] ジェリー[*]

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