[コメント] トウキョウソナタ(2008/日=オランダ=香港)
携帯電話という形で家庭内に持ち込まれる、「外」との繋がり。井川遥の、生徒の他に誰も居ないリビングにデンと置かれたピアノと、路上から個室へと場所を移すピアノの暗示する「個」の身の置き場所。
終盤の食卓のシーンでは『逆噴射家族』を想起した。あれほど思い切った表現ではないが、志向するところは共通している面もあるのではないか。
個々人の居場所が冷酷に狭まっていき、爪先立ちで何とか持ち堪えようとしている日本の現状をうまく捉えかけてはいるが、黒沢清の視線はまだあまりに「映画的」、換言すれば演出的でありすぎ、その余裕が却って画面から強度を奪う。それ故に、長男の決断や国境線などの突拍子のなさも、作為的に映じすぎる。役所広司の突出した存在感はその役柄上、余計に過ぎた観がある。
この脚本を黒沢が演出して面白くなった面も多いが、それと同じくらいにマイナス面も目立つのが虚しい。失業者の群れが『回路』や『叫』等の終末観を漂わせるところに映画的な強さを感じる反面、それはあまりに映画的な画面でありすぎ、描かれた現実が結局は映画を作る上でのネタに過ぎなかった印象が拭えない。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (4 人) | [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。