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[コメント] ニュー・シネマ・パラダイス(1988/仏=伊)

むしろ、映画への愛ではなく、それ故にこそ、愛の映画。[完全版]
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







トトが、自分が望んだ通りにエレナと結ばれていたら、果たして愛に充たされた幸福を得ていたのかどうか、それは神のみぞ知る所だとしても、叶わぬ愛となったからこそ、若い純粋な思いのまま、記憶に残る事が出来たのかも知れない。帰郷したトトに母が言う「お前に電話するといつも違う女性の声を聞くけど、お前を本当に愛している人の声を聞いた事が無い」という台詞からは、彼がエレナとの失恋で失った愛を求めて多くの女性と関係を持った事、そしてそれにも関わらず、彼が求めたものは遂に得られなかった事を覗わせる。またその事は、映画監督として成功と栄誉に包まれていても、彼の心は満たされていなかった事をも示唆している。

トトは、彼と映画への愛を共有していたアルフレードによって、エレナとの恋を実らせる事が叶わず、その代償のようにして映画への道を歩んだ格好になっているが、トト自身が心の底で望んでいたのはやはり、一人の女性と愛し合う事だった。だからこそ、この映画の最後に、芸術としての映画の価値を云々するような所からは切り離されたフィルムの、ただひたすら二人の男女が口づけを交わすだけの映像が、トトの本当の思いを代弁する、本当の意味での「作品」のように立ち現れる。彼に、恋ではなく、映画を選ばせたアルフレードの拙い贈り物が、トトが子供の頃から、形を変えつつも一貫して求めてきたものを手渡し、トト自身の人生の円環の中に、彼を包み込んでいく。だからこそ、あのトトの涙になるのだ。そのトトの涙を観客の方で共有するかどうかは人それぞれなのだろうけど、この作品では、燃えるフィルムや、倒壊する映画館に表されるように、映画というものは儚く脆いものとして描かれる。結局、最後に残るのは、映画館に集ってきた人々の思い、スクリーンに投影していた、自分自身の思いだけなのだ。劇中で上映されている筈の映画の内容に具体性が乏しいのも、そもそも「作品」への愛を描いた映画ではないからこそだろう。

アルフレードがトトに語る、王女に恋した兵士の物語。王女の「100日間、何があろうと通い続けて下されば、求婚に応じます」という言葉の通り、雨の日も風の日も通い続けた兵士は、いよいよ望みが叶うという100日目の朝、なぜか姿を消してしまう…。「100日間通う」というのは、「映画」の暗喩なのかも知れない。真の愛を得る夢を投影しながらスクリーンを見つめ続け、更には自分の思いをフィルムに投影し続ける事が、「100日間通う」という事と相通じる行為なのだというのが、僕なりの解釈。そうすると、現実に恋を得られる筈の選択肢よりも、100日通い続ける事そのものに意味を見出すかのような、永遠のロマンティストは、アルフレードその人なのではないか。少なくとも、彼はトトに、この兵士のような道を歩ませる事を望んだのだ。

さて、僕は完全版しか観ていないんですが、他の方のレビューを拝見すると、どうやら劇場公開版と比べて、帰郷したエレナとの恋の再燃と終焉といった、恋の思い出に関わる部分がよりクローズアップされているみたいですね。完全版は賛否が分かれるようですが、上述のレビューのように、僕としては恋愛部分こそこの映画の核だという解釈なので、完全版の方が、主題の面からもより完全なのかな、と想像します。

(評価:★4)

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