[コメント] マッチ工場の少女(1990/フィンランド)
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「マッチ売りの少女」を単純に映画化したとしても、純悲劇か社会批判以上感慨を持たせようにないと思うのだが、この絶妙な階級描写が作劇に含みを持たせ、重喜劇的に昇華する肝だったのではないか、と思う。手を伸ばしても何かに届きそうで届かない。欲望は静かに濃縮されるばかり。
「マッチ売りの少女」のソフトな翻案では、ラストで金持ちに救われるバージョンが有名だが、当然そんなことは起こらない。ドン引いて裏切る。「凍てつく大地が失望をもたらすばかり」。
マッチをするごとに幻想が深まるのが「マッチ売りの少女」だが、ここではマッチを擦るごとに現実に近づいていくようだ。果物ナイフや食器をカチャカチャさせるシーンなど冷や冷やするのだが、しかし自死は選ばず、殺鼠剤購入のくだりあたりから、彼女の輪郭はむしろくっきりとし始める。これが私なのだ、これをしたかったのだ、と。少し前まで男にあぶれていたのに、二人目の男(これがまたしょうもなさそうな男)がバーであっさり擦り寄ってくる皮肉は最も笑えるシーンの一つだと思うが、このはっきりした輪郭に誘われるものがあったのだと解釈してもいいように思う。これが私だ、こうであるしかない、その哀しさと可笑しさ。
演出は省略の粋が極まっており、ティモ・サルミネンの撮影もこれを受けて、くっきりと無駄のない陰影を刻んでいる。酷薄ではないが、甘さはない。冒頭のマッチ工場の描写からキレッキレであるが、「正常な妊娠です」でカティ・オウティネンの顔にぐっと寄るカメラが傑作。実に「表情豊かな無表情」。えっ?百発百中?
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