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[コメント] 魂のジュリエッタ(1965/仏=伊)

実はフェリーニの総てが詰まっているのはこの映画のような気がする。だけど恋愛に関してはフランス人の方がはるかに上手(うわて)だ。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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フェリーニ作品は大きく分けて3期に分けられる。 イタリア・ネオリアリズムの影響も色濃い1950年代の初期作品。『8 1/2』から始まる60〜70年代の中期は本作からカラー※となりその「混沌色」を強め、後期80年代はやや落ち着いたのかシンプルなストーリーに回帰していく。 人によってその分類は多少異なるだろうが大方こんな所で間違いはないだろう(と勝手に決めつける)。

※正確には、本作は初の長編カラー作品であって、短編『ボッカチオ'70』で既にカラーはやっている。

私のカテゴライズでいけば本作はまさに中期の2本目。まあだいたい中期の作品群は、ワラワラゴチャゴチャして最後には「祭りじゃ祭りじゃ!」「笑ろとけ笑ろとけ!」ということになるのだが、これらは一般に「幻想美」「カーニバル化」と呼ばれフェリーニの最大の特徴とされ、当然本作も例外ではない。

「幻想」と「幻覚」を同一にしていいものかどうか分からないが、実は初期の傑作『』に於いてジェルソミーナが既に幻覚を見ている。ところがこの時は未だ「幻覚を見る人」を「客観的」にカメラがとらえる常識的なよくあるショットである。だが中期以降、「幻覚を見る人」の「主観」つまり「幻覚そのもの」を映し出すことに移行していく。

これもまた、フェリーニ以前から、そして今日に至るまで、実はよくある描写なのだ。だが普通はオーバーラップやら回想やらを駆使するものだが、フェリーニの場合、回想(幻想)が実写として「本当に目の前に転がっている」というのが面白い。しかも極彩色でワラワラゴチャゴチャ大挙して「カーニバル」と化していく。

フェリーニの幻想は、普通の幻想より「過密」なのだ。

この「過密な幻想」を含めてよく「混沌」と称されるのだが、実は混沌と言うわりに群衆劇はほとんどなく、ストーリーの根幹(主人公)は一人(多くて二人)が基本である。つまりフェリーニの描く本質は「人々の混乱した状況」ではなく「人間の内面の混乱」なのだ。

イタリア2大巨人フェリーニ&ヴィスコンティの初期作品が共にネオリアリズムの影響を色濃く残していることは世界中の誰もが認める所だが、フェリーニの中期作品に於いても、その表層的な「派手さ」と裏腹に、「人間の内面の混乱」を描くことに見え隠れするのはやはりネオリアリズムなのだ。 「幻想美」で「リアリズム」とはあまりの矛盾に自分で書いてて笑っちゃうが、社会や現実からさらに一歩進んで「精神的」なリアリズムを描こうとしたのではなかろうか?

(ただし「精神」ではなく「恋愛」を支柱と考えた場合、フランス映画の方が一日の長があるのは事実)

中期の特徴である「幻想美」「混沌」をきれいさっぱり削除すると、この映画は一人の女の内面を真摯に描いており、初期作品にグッと近づく。そう言った意味において、この映画がその両面を最も持ち合わせた一作の様な気がする(本当は『8 1/2』こそが本質なのだが、極彩色という点に於いてこの映画に軍配を上げたい)。

では後期作品はどうかと言うと、極めてシンプルなストーリーに回帰していくことで(ややノスタルジー色が濃くなるが)むしろ本作に近づいてくると考える方がいいような気がする。そしてそこには重大な欠落がある。ニーノ・ロータの音楽がないのだ。

だがしかーし!本質だからと言って、必ずしも「入門編」ではないのでお間違えのないように(←とネタバレありで書いてもしかたがない)。

おっと、こんな所で勝手にフェリーニを総括してしまった。

(評価:★3)

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