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[コメント] ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000/英=独=米=オランダ=デンマーク)

手ブレキャメラとミュージカル女。〔3.5〕

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ミュージカルシーンをまるごと流した予告編に惹かれてつい観にいった。

セルマというヒロインの女性、その運命をひたすら映し出していこうとするキャメラの視線。存在自体が出来事でもあるかのようなビョークがセルマであったからこそ、ひたすら彼女を追っていくだけのキャメラの視線も映画の物語りとして説得力を持ち得たのだろう。彼女に寄り添うキャメラは、客観的な事実の叙述ではなく飽くまでセルマという一女性の主観に寄り添ったカタチで彼女の運命を映し出していく。彼女にとっては現実はひたすら過酷で、自分を受けとめてくれる者などいない非情なセカイ。(逮捕や裁判のミュージカルシーンで、「ミュージカルでは落ちても必ず誰かが受けとめてくれる♪」と歌われるのは、ラストシーンに向けた暗示なのだろう。)だから映画でも、現実はそのように映し出される。

一見錯綜する手ブレキャメラは、けれどしっかりセルマを捉えている限りは、映画の物語りとしての説得力を持ち得る。文字通り「動揺」するキャメラは、端的に現実に翻弄されるセルマの動揺を映し出すものだ。だからそれとは対照的に、彼女の空想の中で繰り広げられるミュージカルシーンはしっかりと安定した(明朗な色調の)画面の中で映し出される。現実の細部から発想され空想されたミュージカルの中でのみ、現実を凌駕する(虚構の)現実感を得ることが出来るセルマ。否応なく翻弄されそれに動揺するしかない現実と、空想された安定した(虚構の)現実感。この二重構造がこの映画の軸となって、凡庸とも言えるその物語を見るべきモノにしているように思える。だからこの映画にとっては、その二重構造は克服されるべきものではないのだろう。この映画は、その本質からしてセルマがふつうの女であること(そうなること)を許さない。それを許してしまえば、この映画自体が存立し得なくなるからだ。この映画にとって、セルマの生きる二重構造の克服を語ってしまうことは、劇中の言葉を借りれば「最後の唄」を歌うことであり、つまりは物語を終わらせてしまうこと、(闇の中の)夢の(光の)世界から現実の中へと放り出されることなのだ。それは独り善がりとも言えるセルマの自己閉塞的な人物造型に典型的に現われている。彼女は閉じていく視界の中で、孤独な闇の中で何を見ていたのか。それは孤独な闇の中でだけ見えるもの、独り善がりな夢に過ぎなかったのではなかったか。監督の手によるものだろう最後の言葉は、まるでそのことを隠蔽する為の自己弁護のようにも読めてしまう。

ついでに:何の脈絡もなく印象に残っているのは、警官を殺したセルマがふらつき出るシーンで、小川からのちょっとしたショットに映っている排水管の上を這っている蟻んこ。映画の(セルマの)悲劇のドラマとは何の関係もなく画面に映り込んでいる蟻んこ。これぞホントの神サマの視点だと思えて妙に感動した。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)ゑぎ[*] グラント・リー・バッファロー[*] おーい粗茶[*] muffler&silencer[消音装置][*]

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