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[コメント] ラスト サムライ(2003/米=ニュージーランド=日)

映画では無い。
バーボンボンバー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







一つの国を外から見つめて作品化するという行為は非常に危険な行為である。作者が強い思想からそのテーマについて見つめたり、明らかなステレオタイプでユーモラスに描いたり、完全に調査して文句の付け所の無い作品にするなどせねば成立する意義がたいへん狭くなる。『ラスト・サムライ』はその意味において非常に中途半端である。無理解さを笑いに昇華させるわけでもなく、真剣で、しかし日本人の目から見れば明らかにおかしく目に付いてしまう箇所が多いものなのである。 冒頭の山々は日本の何処であろう。頂上から他の山々を見下げ、そして富士まで見える。あのような土地など日本には無いだろう。そしてあの村も異常なステレオタイプである。茶道、稲刈り、機織り…と”日本らしい文化”が勢揃いしている。またあの村を放し飼いされている鳥が歩くのであれば、アヒルではなく鶏であろう。

何故山奥の一武士が英語を喋るのか。維新後の社会で尊王であるはずの「武士」が、どのように世界を意識しているのか。しかし、それは「そういう人も本当にいたのだ」と説得されてしまえば、絶対否定するほどのものでは無い。そういう武士もいたのだろう。では、なぜ勝元の弟までもが突然英語を喋るのか。勝元の場合は「お前と話したい」「いい勉強になる」などと、英語を勉強している雰囲気を醸し出す台詞を幾つか云うが、勝元の弟はオールグレンと一緒に生活しているうちに覚えてしまったのだろうか。しかし、それも勝元と一緒に少しは勉強していたのだなどと無理やりに納得することは出来なくも無い。しかし、天皇までいくと如何か。今までの物語の歴史で考えれば、異国に来た者はその国の言語を喋ったであろう。しかし、『ラスト・サムライ』は日本人に英語を強要する。勝元らは「事前に勉強していたのだ」と自分を言い聞かせることもできるが、仮にも日本の「国王」にまで最たる理由も無く作り手側の言語を喋らせてしまう。『ラスト・サムライ』のこの言語の問題は、イタリアやドイツを舞台に平気で英語のみのフィルムを作ってしまうハリウッドの馬鹿馬鹿しいイデオロギーが表出された範例になるだろう。天皇がオールグレンにだけ英語を喋るならともかく、「皆の者、……」という台詞までも英語で喋る程であるのだから。

勝元の義理の妹は、全く人妻らしさが無い。歯は黒くないし、オールグレンとキスしてしまうなどというのは、今まで多くの作家が考えてきた加害と被害の問題や、戦いと殺しなどといったあらゆる素晴らしいテーマに対する冒涜である。勝元は「もうすぐ冬が来る」と云うが、いつまでたっても葉が色づくことは無く、青々としたまま次のカットでは雪が積もっている。クライマックスの戦闘シーンは、明らかに現代のゴルフ場に見えてしまう。そして、これに至っては云うまでも無いが、勝元が銃を使わないのはいくら何でも変すぎる。作品の中核の担う桜のエピソードも、桜が全く美しくないため興味が湧かない。そうなのである、『ラスト・サムライ』には映像の力が全く無い。むしろ、映像の力を使おうとしていない。映画はテクストや音楽に頼らず、映像の力によって観る者の心を動かさねばならない。『ラスト・サムライ』は、フィルムのほぼ全編に音楽が流れ、感情の操作を音楽に頼りきっている。オールグレンの日記と称したナレーションのシーンは、あのナレーションさえあれば後ろに流れるどのカットも不要であろう。オールグレンが語っていれば良い。『ラスト・サムライ』は映画では無い。まだまだ細かく羅列すれば切りが無い。『ラスト・サムライ』は、異国を舞台に映画化しているから、とか、時代考証が…、とか、そのような問題ではない。リアルで無さ過ぎる。

しかし、作り手が「そんなところに拘ったのではない」と反論する可能性も十分考えられるので、違う角度から批判をしたい。

日本の時代劇には、外国人でも判り易いであろう「日本らしさ」が在る。質素で、静かで、豪快で、ただ単に「時代劇とはこういうものだ」と括ることは出来ないが、多くに時代劇には、日本というステレオタイプのような「わび・さび」といった判り易い「日本らしさ」を見ることができるだろう。例えば、内田吐夢の『宮本武蔵』の殺陣は質素であるが格好いい。静寂を巧みに用い、静寂に緊張感を持たせている。群集や人物はそのまま映すのではなく、何かで隠したり、後ろ姿であったり、控え目に映す。山々はローアングルで映し、武士の立ち向かう態度を巧みに表現している。『ラスト・サムライ』では山々を上から映すので、武士はもはやお山の大将である。

エドワード・ズウィック黒澤明しか見ていないのだろうか。しかも『』のような、力強い壮大なものしか見ていないのだろうか。溝口健二の『元禄忠臣蔵』では殺陣が一度も行われないことをしっているのだろうか。トム・クルーズも武士道がお気に入りで、日本が大好きだと言うのに、あの出来に文句をつけなかったのであろうか。『ラスト・サムライ』を見るなら、『キル・ビル』を見ればよかった。ジャームッシュのビデオでも買えばよかった。私にそう思わせてくれたほど『ラスト・サムライ』は素晴らしい。映画では無い映画として最高の例である。

(評価:★1)

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