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[コメント] 奇跡の海(1996/デンマーク=スウェーデン=仏=オランダ=ノルウェー=アイスランド)

波間と行間―シモーヌ・ヴェイユの思想の実践者第一号、ここに現る。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「すべての人間は、自分の愛するもののためなら死ぬ覚悟がある。」

彼女はこうも言う。

「愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。神は、自分をしか愛することができない。わたしたちは、他のものをしか愛することができない。」

「どうか、わたしは消えて行けますように。今わたしに見られているものが、もはやわたしに見られるものではなくなることによって、完全に美しくなれますように。」

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注意:以下の文は、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『イディオッツ』のネタバレに抵触しております。

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……『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『イディオッツ』と「三部作」共通して、鑑賞後思い浮かべたのはシモーヌ・ヴェイユであった。彼女の著作『重力と恩寵』のカバーに添えられた文を引用したい。

―「重力」に似たものから、どうして免れればよいのか?―ただ「恩寵」によって、である。「恩寵は満たすものである。だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしかはいって行けない」「そのまえに、すべてをもぎ取られることが必要である。何かしら絶望的なことが生じなければならない」。真空状態にまで、すべてをはぎ取られて神を待つ…―

どうですか?三部作の三人の女主人公は、この「真空状態」に、それと知らずして置かれていませんか?言わば、三人共、ヴェイユの思想のまさに実践者ではありませんか?

徹底した自己無化、これを総じて「愛の実践」とするならば、明治以前には「愛」という西洋的概念を持たなかった我々には理解し難いものであるのは当然でしょう。

ただ、そんな我々にも頷ける言葉をヴェイユは残しています。

「不幸があまりにも大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される。」

ダンサー・イン・ザ・ダーク』と本作に寄せられた多くのコメントを見る限り、まさに的を得た指摘でありましょう。

誤解を恐れずに言うなれば、「死」のすべてを、不幸、悲劇的結末とするのはいささか傲慢なのではないでしょうか?「死」という一現実を越えたそこに、愛に身を投じる喜び―「喜び」という概念・感情すら超越した喜び―を、我々は尊重することはできないのでしょうか。

そうした大問題を、我々に傍若無人に突きつけてくる、この監督もまた、相当傲慢なのでしょうが。

追記:私は、あの「余白」が、物語そのものよりむしろ、大層気に入っています。ヴェイユの著作が、ノートに書きとめてあった思索群を死後ある人物が編集した断想集であるような、その行間に思いを馳せる「余白」と同じように。

(評価:★5)

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