[コメント] ゾンビ(1978/米=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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原題は『Dawn of the Dead(死者の夜明け)』。このシリーズの第一作は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド ゾンビの誕生』(原題:Night of the Living Dead=生ける死者の夜)、第三作は『死霊のえじき』(原題:Day of the Dead=死者の日)、第四作は『ランド・オブ・ザ・デッド』(原題:Land of the Dead=死者の地)。どうですか、この、詩情溢れる原題と、俗っぽいB級テイスト溢れる邦題。邦題だと、四部作の繋がりも見えないし。
で、この、『ランボー』とか『ゴジラ』みたいな邦題で公開された第二作は、幾つか異なったバージョンが存在するみたいだけど、僕はこの‘米国公開版’しか観ていないので、このバージョンがベストかどうかは分からない。ただ、よく言われている、アメリカ型消費社会を皮肉った作品としては、なかなか楽しめた。同じように、ホラーという体裁を用いつつ消費社会を批判した作品としては、ジョン・カーペンターの『ゼイリブ』なんていうのもあるけど、そっちの方はインベーダーが人間の姿をして紛れ込んでいるという設定。なので、表面的には‘敵/味方’の区別が、主人公たち以外には完全に隠されている。ただ、或る手段を用いれば、そうした隠れた敵がハッキリ区別できる、という形になっていた。この『ゾンビ』はちょうどその正反対で、ゾンビになった人間は、顔の皮膚が青黒くなっている事で一目でそれと分かるのだけど、正常な人間もまた、いつゾンビに変えられてしまうか分からない。それに、インベーダーは人間より多少は知能が高そうな感じだったけど、ゾンビの方は、人間が知性を失い、本能に従う動物と化してしまった存在。その行動は、生前の習慣を無意識的に繰り返すことと、食欲を充たす為に、生きた人間の肉を喰らおうとする欲望、この二つにのみ従っている。
ゾンビの群れは、生前の習慣に従い、ショッピング・モールにワラワラと集まって来る。モール内に鳴り響く、楽しげなBGMと、「お買い得バーゲンセール実施中」のお知らせが、なんとも皮肉。扉のガラスを叩いて、中に入ろうとするゾンビ、或いはエスカレーターに乗って、虚ろな顔をして運ばれていくゾンビ。それはまるで、空虚な消費社会の中で、既に‘生ける屍’と化している僕ら自身の、グロテスクな戯画のようでもある。一見、笑ってしまうようなパロディ風の場面にこそ、この映画の真の怖さが隠れている。マネキンをゾンビに見立てた場面などもあり、ゾンビは消費文化のモデルのようだ。かつて、哲学者コジェーヴは、近代以降の人間の生き方の一つのモデルとしての、アメリカ的生活様式を、‘動物への回帰’と呼んでいた。もはや人々が、トンネルやら記念碑やらを建てるとしても、それは鳥の巣作りや、蜘蛛が巣を張るのと同じである。人間は、幼い動物が遊ぶように遊び、成熟した獣のように性欲を充たすだけになり、環境と一体になってしまう。モールを彷徨うゾンビたちは、そんな風にアメリカナイズされた現代人の、魂の抜けた在り様の暗喩なのだろう。
ところで、この映画のゾンビたちは、弱い。まず、動きがノロい。それにオツムも全然働かないので、基本的にはただウロウロしているだけである。押したらすぐ倒れるし。個々のゾンビは、敵としては大した脅威ではない。ゾンビが、通常のモンスターのような人間を凌駕した能力を持たない弱い存在である事は、主人公たち=人間側に、戦略の余地を与える。モールという建物を舞台とした、知略を駆使してのサバイバル・ゲームとしての側面は、この映画の意外な面白さになっている。尤も、それと引き換えに、ホラーとしての恐怖感やショックが、映画全体としては物足りないものとなっている嫌いはある。が、大した相手じゃないと高を括ってゲーム感覚で闘っているうちに、いつしか、集団化したゾンビの群れに取り囲まれ、肉を喰い千切られ、自分もゾンビと化してしまう..この、低温火傷のような恐怖感。ぬるい平穏な生活にいつしか飼い馴らされ、白痴化、家畜化していく現代人を揶揄しているようで、この恐怖感は身に沁みる。
ただ、飢えて、生気を失い、さ迷い歩くゾンビたちはどこか、難民や、飢餓に苦しむ民のようでもある。ゾンビのアイデアの元であり、劇中でも言及されているブードゥー教は、奴隷として連れて来られた黒人たちの宗教らしいから、その辺にも政治的な含意が有るのかも知れない。ゾンビの変色した皮膚もまた、人種差別を連想させる。この映画が公開された年はまだ、ベトナム戦争が終結してから間が無い頃で、日本にも難民が、ボートに乗って漂着したりしていたらしい。そんな事を考え合わせると、劇中、テレビに出てきた科学者が、討論番組(?)の中で、ゾンビ騒動の解決策として、「彼らに食糧を与える」というアイデアを披露し、それが出来ないなら「核爆弾で一掃する」以外に方法は無い、これが唯一、合理的な解決策だと主張して、猛反対に遭う場面は、印象的。共存の道を採るか、殲滅するか。国際的な貧富の差と、それに伴うテロの横行する現代にも通じるテーマであり、戦争の論理を突き詰めていけば、結局はこの二者択一に行き着くのだろう。とは言え、二十一世紀の米国はアフガニスタンで、劣化ウラン弾を投下しつつ、一方では食糧も投下していた..。この映画の中で、人間たちは、まるでテレビゲームか狩猟のように楽しげに、ゾンビたちを女子供の区別無く狩っていく。肩を寄せ合い笑顔を見せる軍人の姿など、まるでアブグレイブの蛮行を予告したかのよう。この映画は、最終的には武器を棄て、貪欲さも棄てるべきだと言っているように見えるが、最後の最後まで、ぬるい泥水に浸けられているような不安感が付きまとう。
主人公たちは、ヘリに乗ってモールに辿り着く。その途中、地上で行なわれているゾンビ・ハンティングは、知性と同時に貪欲さも身につけた人間こそが、真のモンスターだと感じさせる。だが、飢えと貪欲に駆り立てられた醜い争いが繰り返される地上から離れ、ずっと天から見下ろしていられる人間などは居ない。最後に生き残った二人は、ヘリに乗って脱出を試みるが、その時に二人が交わす、「燃料は?」「そんなに無い」という会話にも表れている通り、燃料にも食糧にも、限りがある。それを再び手に入れるには、あの地上にまた舞い降りなければならないのだ。
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