[コメント] 情婦(1957/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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敏腕弁護士ウィルフリッド卿(チャールズ・ロートン)を乗せたハイヤーが、彼のオフィスの前で停止するまでをゆっくりとしたパンで捉えるファーストショット。長い入院生活を終えて帰ってきた彼は、養生のため簡単な民事訴訟程度の仕事しか許されていなかったにもかかわらず、とある殺人事件の弁護を引き受けてしまう。さて。
この映画で注目したいのは、まず、移動シーンのあからさまな排除。法廷から事務所、あるいは留置所や駅へと場面が変わっても、登場人物がその場所へ移動するような説明的ショットが、ファーストショットをのぞいては一切使われない。その代わりとでもいうのか、階段昇降機などという人を食った移動装置がこれ見よがしに登場するところなど、どこか「移動」という行為への軽視と揶揄を感じないだろうか。
それから、法廷という限定された空間=舞台装置のうえで展開されるドラマ。役者は、公判に遅れてやってくるチャールズ・ロートンのように、あるいは証人台へと召還される証人たちのように、上手から登場し、そして無罪判決を受けて晴れやかに退出するタイロン・パワーのように、あるいは愛する者の裏切りへの報復行為を行い係官に連れ去られるマレーネ・ディートリヒのように、下手へと退く。
場面転換は暗幕のように行われ、まるで舞台のような限定された空間でドラマが進行する。評価のほとんどを脚本と演出の妙味に負うこの映画が、空間性の排除によって仮構された舞台装置の上でのみ「上演」されることにより、映画として評価されるべき他の諸要素を、あらかじめ視界から排除していたことに目を向けてみよう。この巧妙な仕掛けにより、映画の何を活かし、何を殺すことになったか。
たとえば、常備薬の錠剤を碁盤の目のように並べたりそれを崩したりする遊戯が、ウィルフリッド卿が頭脳を活性化させるときの愛嬌のある癖として演出されたものかどうかは分からないが、いずれにせよその「円形」をした錠剤は、時間を追うごとに持ち駒を失うようにその数を減らされていく。また彼の無比の武器であった単眼鏡の「丸」レンズは、結果として真実を映し出すことに失敗する。あるいは、「丸々と」禿げ上がった頭を恭しく下げる彼の執事もまた、看護士(エルザ・ランチェスター)の目を盗んでココアとブランデーをすりかえ、彼の忠実な共犯者たることを誇示していたにもかかわらず、結末部において看護士にその役割をいともあっさりと奪われる。公判という試合に勝ちながらも真実の勝負に敗北したウィルフリッド卿は、彼を敗北させたクリスチーネに対し、まるで素晴らしい演技を見せた舞台上の大女優に対するかのように惜しみない賞賛を送り、彼自身も「球体のように丸みを帯びた」体躯を誇らしげにそらしつつ、嬉々として舞台のうえにとどまろうとする。
こうして円形的主題はみずから敗北を選び、矩形のスクリーンを彩らんとする視覚的運動性を放棄し、舞台という限定された空間=非スクリーン的装置に半ば積極的に取りこまれる。裁判終了後に主人公を療養地=舞台の外へと送り返すはずだったハイヤーは出番を失い、ハイヤーがオフィスを出発するという、ありうべきだったラストショットは決して映されないだろう。舞台装置が円形を絡め取り、映画の運動を奪う。これが舞台劇による映画への高らかな勝利宣言だとすれば、ビリー・ワイルダーの老獪ぶりやいかに、である。
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