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[コメント] イノセンス(2004/日)

ホアーキン・ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」で、1978年冨田勲は外宇宙に飛翔するイメージを描き、2004年押井守は人間内部の深淵へと潜行した。この26年のあいだにも、確実に人間の感覚は変わっている。
水那岐

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この時代においても、人間は何らかの愛玩物を慰みとする心を抱えている。犬、タバコ(口唇的な意味での)、そして人形。だが、自らの体を人形化することへのタブー視は存在しない。 かくして、ネット社会との繋がりを得ることで、人間はつねにバイブルやミルトン、果ては孔子に至るありとある古典をペダンティックに乱発しながら会話することとなった(?)。ここに現代人の感じる齟齬というか、違和感のひとつは提示される。

いまひとつは、「潔癖性」だ。連続殺人犯ロボットのプロトタイプたる少女は、人形に自らを模倣されて終わるかも知れぬ運命を呪う。バトーは彼女を人形の立場から詰るが、少女は至極真っ当に泣いているのだと小生は受け取った。むしろ普段は電脳世界を遊んでおり、自分が必要とされるときに人形に憑依する素子のほうが常人からかけ離れている。潔癖な意識は自分が犯される対象である人形であることを拒絶するだろう。素子はそれを超越することで確実に未来の意識を持ち、そしてバトーの「守護天使」たることで未来の愛情表現までも我々に突きつけている。彼女は電脳時代のパチャママ(大地母神)だろうか?

「現代を描く」といいながら押井は刺戟的であるなあ、と感じる。これらの違和感を克服しない限り人はイニシエーションを終えられないのか?随分と残酷な夢が現実のものとなろうとしているのだな、と老兵は戸惑うばかりであった。

(評価:★4)

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