[コメント] エレファント(2003/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この不可思議なタイトルは、監督に対してプロデューサーが言った、「アラン・クラーク監督の≪エレファント≫(89年,BBC)のように、安易に銃に関する政策に原因を求めないような映画なら、作っても良い」という言葉に、ガス・ヴァン・サント監督自身も納得した結果、タイトルを借りる事になったとか。また、それ以外にも、「数人の盲人が象を触っても、一度も目にした事の無い象について、その全体像を理解する事は出来ない」という、仏教の説話に基づいた意味合いも与えたかったという。ネットで拾った話なので、確実な話かどうかは不明だけど。
とは言え確かにこの映画、一応はコロンバイン高校での、生徒による銃乱射事件にインスパイアされた物語ではあるものの、事件の真相や、犯人の内面に食い入ろうとした内容ではなく、事が起こるまではいつもと同じ淡々とした日常でしかなかった"その日"を、冷めた、乾いた視線で追い続けただけの作品で、事件の"引き金"となった何か特定の原因は、全く描かれていない。カメラは、同じ高校に通う生徒たちが、廊下で誰かとすれ違ったり、「今度のライヴ、行く?」といった他愛のない会話を交わしたり、つまらない事でちょっとした口喧嘩をしたりする様子を、それぞれの生徒の視線に寄り添う形で、長回しで追っていく。或る生徒の視点から、別の生徒の視点へと移る時、その生徒の名前が画面に映るのだけど、エンドロールをよく見てみれば、この役名、役者自身の名前をそのまま使っている。これは多分、コロンバイン事件の関係者と、映画の人物とを切り離す意図があったのだろう。加えて、こうした事件は、いつ誰の日常に降りかかるかも知れないのだという、そうした普遍性を与えたかったのかも知れない。
一人の生徒にカメラが寄り添っている時、その人物を中心に世界が回り始める。或る場面では中心に居た人物も、別の人物の視界の中では、取るに足りない存在であったり、眼に入ったゴミのような邪魔な存在であったりする事もある。同じ高校に通い、同じ事件に遭遇し、同じ時間と空間を共有していたように思える生徒たちも、実は象を撫で回す盲人のように、自分の手に触れられる狭い範囲で世界に触れていたに過ぎなかったのだ。
しかし、カメラが追う生徒たちの殆どが、どこかに閉塞的な空気やストレスを抱えている。事が起こる準備段階が映し出されるまでは、誰が暴発してもおかしくないような、不穏な雰囲気が漂う。殺人ゲームやナチスなど、ヴァーチャルな映像が暴力衝動を誘発した事を匂わせた場面はあるものの、結局、事件の"原因"は、一見すると淡々とした日常生活の中に、地雷のように埋まっているのだ。最後の方でキューブリックの映画『時計じかけのオレンジ』の台詞が引用されているが、『時計じかけのオレンジ』もまた、映像と暴力の関係を風刺的に描いた作品だった。オーディションで選んだ高校生の名"アレックス"から監督が思い出したのか、それとも最初からアレックス狙いで審査していたのか。
映画の中で、束の間の主人公を演じていたそれぞれの生徒たちが、虫ケラのように、唐突にその日常を断ち切られる恐怖。その、突然に冷たく突き放される驚きは、世間一般で流通しているような映画、登場人物たちの中で主役とその周辺だけが、生と死を特別扱いされ、観客の感情移入を求めるような映画、そうしたものへの強烈なアンチテーゼとなりえている。
学校の建物内と、その周辺の場面だけで構成され、各人の視点が、噛み合わないパズルのピースのように散らばった一個の小宇宙のようなこの映画の中で、僕にとって特別な存在に思えたのは、異性愛と同性愛について語り合うミーティングルームのような部屋。事件の日の議題は「ゲイを見た目だけでそれと見分ける事は出来るか?」。盲人が象に触れても、象とは理解できないかも知れない。だけど、目が見えていればそれで全てが見通せるのだろうか。逆に、もし象が一声鳴けば、盲人でもそれと知る事が出来るのではないか。全篇を通して、特に何かを語ろうという素振りは見せないこの作品だが、語り合う事の意味を、無言の内に訴えている様子は見て取れる。「ゲイを見た目だけで..」という議題は、実は劇中の犯人二人がシャワールームで、「キスした事ある?」と男同士でキスをする場面にリンクしているのだ。
ミーティングルームで円になって座って語り合う人物を映した場面では、カメラはゆっくりパンしていって、それぞれの参加者の顔を正面から捉えていき、球体のようなイメージを作り出す。他の場面では、或る特定の人物の視点から一方的に撮った、一直線のイメージが多い事を考えれば、この場面の特別な存在感を感じずにはいられない。この一直線の主観的な視点は、劇中のサバイバルゲームの視点と重なって見える(何も無い砂漠のようなゲーム画面も印象的だった)。また、事件発生後、ミーティングルームの外が騒がしくなる中、ドアの外に顔を出した生徒が射殺されてしまう場面がある。互いに顔を見合いながら、自由に自分の思いを語り合う場所である、ミーティング・ルームのドアの内側だけが、唯一の安全な領域として描かれているのだと思う。犯人が校長に投げる「生徒の話を聞いてやれ」という言葉、そしてミーティングルームでの、「最後まで話そうよ」という台詞は、いかにも切なく響いてくる。
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