[コメント] アイ,ロボット(2004/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
恥ずかしながら、この映画の上映をきっかけに初めてアシモフの作品を読んだ。手に取ったのは、もちろん『われはロボット 決定版』(ハヤカワ文庫)。プロローグたる『ロビイ』を温故知新の想いで読み切ると、映画館に足を運びたくなった。
映画の前半は悪くないと思ったが、後半には落胆した。しかし、どこにどう落胆したのか、自分なりの答えを見つけるのに時間がかかった。
昨日、アシモフの原作※1を読み終えた。エピローグたる『災厄のとき』を読みながら、もやもやしたものが晴れていった。
『災厄のとき』には「マシン」という巨大な人工知能が出てくる。ロボットの脳味噌たる陽電子頭脳の究極形で、もはや人間に取って代わり治世を預っている。映画にもそれに近い親玉陽電子頭脳が出てくる。「VIKI」だ。前者と後者はある境界線をめぐり、正反対の描かれ方をする。境界線とは言うまでもなく「ロボット工学の三原則」だ。
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。
マシンもVIKIもその課された役割の性質から、いつしか「人間」を「人類」に置き換えて思考(計算)するようになる。すなわち――
ロボットは人類に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって人類に危害を及ぼしてはならない。
VIKIの結論はこうだ。「人類に危害を加えうる最大のものは何か? 人類自身に他ならない。しかるにロボットが人類を完全に統治する必要がある。その過程で発生しうる反乱分子を止めるべく、彼らに危害を加えることもやむをえない。」
実にラディカルだが、この結論自体は原作におけるスーザン・キャルヴィンが示唆した「マシン」がいずれ導き出すであろう結論の選択肢に含まれないとも言い切れない。
だが、そこに行き着くまでにマシンが、ロボットが抱えるであろう矛盾が、擬人化して言い換えるなら苦悩が、VIKIには完全に欠落している。それは、原作においては「血の吐くような苦悩」として描かれている。幾多のロボットがその矛盾に狂っていった。そして、この原則第一条の矛盾、全体を救うために個々を犠牲にせねばならない可能性は、アシモフという一人の作家が社会と向き合ったときに突き当たった大いなる苦悶だったに違いない。ならば、それをまったく描かずに、VIKIやNS5をステレオタイプな体制の抑圧の象徴として貶めて描く映画化を是とできるだろうか?
原作にはロボットやマシン、そして三原則に込められた理想があった。もちろん理想はただの願望ではなく、深い理解に裏打ちされていた。だとすれば、それは理想というよりも信頼と言えたかもしれない。ところで原作におけるスーザン・キャルヴィンは次のようなことを言っていた。「ロボット工学の三原則を人間に適用してみれば、それはそのまま普遍的な倫理規範になる」と。ロボット、マシン、三原則に対する信頼は、アシモフにとってそのまま人間と世界と未来に対する信頼だったのだろう。そういう時代だったのかも知れない。そんな昔を夢想し、擬似的なノスタルジーを強く感じる。
だが一方で、『災厄のとき』においてスーザン・キャルヴィンが躊躇いなくすべてをマシンに委ねたのには戸惑いを禁じ得なかった。そんな自分は現代をこの映画と共有している。そう、VIKIはVIKIで紛うことなき時代の子なのかも知れない。不信を纏い、暴力が先んじる時代の……
思えば、原作において暴力が先んじた場面は一度もなかった。ほぼ対話によって始まり、対話によって解決された。極限まで糸口を探る忍耐に裏打ちされた人間とロボットの、人間と人間の対話によって。そこに映画にはない美しさがある。世界に吹き荒れた暴力の嵐をくぐり抜けた後という時代背景もあったのだろうか。
あるいは、この映画の前半が悪くないと思えたのは、そこに紛いなりにも対話を見出せたからだ。何より主人公の設定が大いなる対話の可能性を秘めていた。
過去の交通事故にあってスプーナーはロボットに命を救われるが、その際彼がロボットに助けて欲しかったのは自分ではなく、同じ事故にあった少女の方だった。だが、ロボットは彼の言うことを聞かず、スプーナーと少女の生存率を冷徹に見極め、前者の救命を選択してしまう。スプーナーは助けられたにもかかわらず、ロボットを憎んだ。奴らには感情がない、と。しかし、皮肉なことに彼は今もロボット工学の技術により体の一部を機械化され生かされている。
感情がないことに対する憎しみは裏を返せば感情を持つことへの期待であり、機械が原則を破ることへの予感は裏を返せば機械が自我を持ちうることへの直感である。サイボーグたるスプーナーは誰よりロボットに近い人間であり、サニーは誰より人間に近いロボットだ。両者の予定調和でしかない共闘を描くより、両者の対峙に固執した方が遙かに面白みがあったろうに。
※1 実を言えば「原作」ではない。クレジットにおいて、アシモフは「suggested by book」という見慣れない言い回しをされている。この辺に良くも悪くも製作者のスタンスが現れている。要は「原作とは別ものとして見てください」ということか。個人的には、そういう見方を否定するものでもないと思っている。アクションというジャンルの外枠がシナリオおよびテーマに課す制約は小さくない。その意味では、このレビューにも無暗な側面があることは重々承知している。ただ、最近の大作のほとんどがそういったマーケティングのセオリーに逆らおうとしないのはやはり寂しい。
余談:原作の初話『ロビイ』について
週刊マンガでいうところの連載決定前の読み切りみたいな位置づけになるのだろうか。プロローグ的に組み込まれてはいるものの、それ以降との整合性を明らかに欠いている側面が見受けられる。その最たるものとして、ロビイにグローリアに対する愛情らしきものが見出せる点だ。それ故に、この話は三原則以上の何かを示唆するものとなっている。ロボットは愛情を持ちうるのか。ロボットは自我を持ちうるのか。ロボットとは? その問いはやがて鏡となり、人間を映し出す。母親がロビイに厳しく退室を命じたとき、ロビイは命令に従いたくなかった。まだそこにいたかった、グローリアと。これに通じるシーンが映画にもあった。サニーが廃棄されようとするシーンだ。未熟極まりない人間側の認識と定義が産声を上げたばかりの自我と尊厳に追いつけず、皮肉にも感情をシステマティックに処分しようとした瞬間の残酷と哀切。サニーも想った。まだここにいたい、誰かと――自我も、愛も、それが全てだ。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (5 人) | [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。