[コメント] 生きる(1952/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「いぃーのぉち、みじぃかぁしー…、恋ぃーせよ乙女ぇー…」と、実に辛気くさく歌う、ホントに命短いオヤジの、余りに不釣合いな選曲にも、一つのペーソスがある。劇中で言及されているゲーテの“ファウスト”で言えばグレートヒェンに当たるであろう、役所を辞めた若い女子職員のような存在には、この歌は相応しい。だが、そうした若い生き生きとした異性と心を通わせるには、余りに時機を逸しているのが、この主人公なのだ。歓楽街の女たちでは充たされなかった気持ちは、持って行き場が無くなってしまう。だが、その喪失と同時に手に入れたのが、「何かを作る」「子供たちの為に」という使命感。
女子職員との会話で生まれたこの新たな希望を祝福するかのように響く、“ハッピーバースデー”の歌声。これは、立ち去る主人公と入れ替わりにやって来た若い(!)女性の為に歌われているのだが、二度とは戻らない若さを取り戻そうともがいていた主人公に、それを諦める事で得た‘第二の誕生’を祝う歌が贈られたかのような場面。そしてまた、‘バースデー’を祝うとは、新たな生命、子供を祝うという事だ。
尤も、これを免罪符のようにして、実の息子との関係を修復する事についてはノータッチのまま逝ってしまう、という面も出てくるのだが。葬式で息子が流した涙は、「親父、邪険にしてスマン」と急に改心したようにも見えるが、実際に彼が口にする台詞「癌だと知っていたのなら、何で言ってくれなかったんだ…」の通り、父が最期まで自分との関わりを求めなかった事への、失望や嘆きのようなものを読み取る事も可能だろう。何だか主人公が‘自分が自由に理想化できる、まっさらな無垢の子供’という幻想に逃げ込んだようにも見えてしまう。
さて、主人公が公園建設にやる気を見せた所で突然、「その五ヵ月後、この物語の主人公は死んだ」。この映画のナレーション、冒頭でも主人公に対してなにやら「彼は死人同然」とか「更に病気が悪化せねばならない」など、あの自称ヘボ小説家などよりよっぽどメフィスト・フェレス的なものを感じるんですが…。悪意というか、殺意。ヘボ小説家が犬を蹴るのも嫌な場面。まあこれも、“ファウスト”でメフィストが黒犬に化けて現れるのを意識してなのは、ヘボ小説家の台詞の通り。ともかく、必死に生きなきゃ死んだも同然とでも言うかのようなこのナレーションの冷徹さには、ちょっと首を傾げてしまう。劇中で描かれたような役所のやる気の無さを批判するのは分かるが、日々を淡々と生きる姿勢にNO、といった、或る意味、小津映画の対極のような主張には、一方的で極端、かつ大味なものを感じる。
話を「主人公は死んだ」に戻す。映画の粗筋を予め知っている観客は、多分その大多数が、主人公が必死の努力で公園建設を実現させる過程がこの映画の見所だと予想していた筈。まるでそれを逆手にとるかの如く、あっさりと観客の高まったテンションを断ち切る、主人公の死。そして葬式参列者による、回想と議論。この手法に関しては、「アリ」だと思った。このように、死は唐突に訪れるものだ、という真実を演出的に表現しているのは、主人公が自らの死を或る日突然に知らされる事ともタブらせているのだろうか。また、公園建設は役所の各部署の努力、プラス偶然の結果なのか、それとも、主人公の意志の強さがもたらした結果なのか、を皆が延々と議論するまだるっこしさは、これはこれで見所。役所の特性を云々し合うこの場面は、冒頭で陳情を夥しい部署でたらい回しにする場面と、巧く対照性/対称性を成している。どちらも、役所が様々な部署の総合体だという事を描いている点では同じであり、だからこそ、それを何かの目標に向けて動かす一つの意志の有無が、全く違う結果をもたらす事を痛感させる。「この一大事業が完成するには、幾千の手を指図する一つの精神があれば足りる」(ゲーテ/高橋義孝訳“ファウスト”)。
更に、主人公の遺した事業や、その最後の生き様を、複数の人間に回想で語らせる演出は、何かを‘遺す’とはどういう事なのか、を考えさせる。形を残す事よりも、記憶に残る事の難しさ。そしてそれが、残された人間の意志を少しは変えるという事、と同時に、根本的に変える事の困難さ。決して、甘い映画ではない。むしろ、苦い。もっと素直に感動させる映画なのかと先入観を抱いていたので、意外。そしてまた僕のようなヒネクレ者は、感動的なのであろう場面よりも、こうした苦い場面でこそ、妙にじわりと感動、というか、感心させられた。
それにしても、公園建設を陳情していたオバサンたちは、役所でも葬式でもわぁわぁ騒ぎ立てるだけで、主人公とさえも、まともな人間関係を築いている場面が何も無い。葬式での嘆きようから推測してくれと制作者側は言いたいのかも知れないが、こんな扱いではオバサンたちは、単なる物語の駒。或いは、ただの泣き女たち。結局、うだうだ言っているだけでやる気の無い役所の人間たちの方が、人間的にきちんと描かれている。狡賢い議員にしても、類型的に過ぎるだろう。主人公の人生の満足という主観性以外に、地域の人々にとってあの公園がどんな意味を持っているのか、という点では、特にこれといった感慨が沸いてこない。この点は、考えようによっては、映画的にかなり痛い所。肝心の子供たちの顔も見えてこないし、公園の造りにも、余り温かみを感じない。死にかけたオヤジの自慰を描いた映画という以上でも以下でもないんだから良いじゃないか、とも、余り思えないし。
わざとあら探しをするに及ばず、感動を冷ますのに足る理由は色々と見つかる映画。端から素直に感動するような造りにしてはいない、というのであれば、☆四つにしたい気持ちも無くはないけれど、そんな主張をされても、余りに主人公がウェットすぎて、やっぱりちょっと、受け入れられない。第一、僕はこういう、凡庸な有象無象が終始グダグダ言いバタバタする映画は好かないので、その意味では星二つにしたい衝動に駆られもする。黒澤演出のクドさも、僕には合っていないのかも知れず、他の監督の演出で観てみたい気分。
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