[コメント] 親切なクムジャさん(2005/韓国)
映画を見終った人むけのレビューです。
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復讐劇は最後にカタルシスを生んで成就する。ところがパク・チャヌクの『復讐者に憐れみを』、『オールド・ボーイ』、そして本作へと続く復讐三部作には最後のカタルシスが存在しない。それは、パク監督自身が復讐という行為を肯定していないからだろう。
前二作は、復讐という極めて反社会的行為を全面に押し出しながら、安易にその行為を肯定しないポリシーから物語の結末が混乱し観客に欲求不満を起こさせるという欠点があった。両作とも前半のたたみかけるようなスピード感溢れる演出が見事であった分、その不満もまた大きかった。
今回は、なるほど「親切な」クムジャさんだ。前半、クムジャは女囚たちに対する親切な行為で彼女たちを味方につけ自らの復讐行為に巻き込んでいく。後半のクムジャは、これまた親切にも犯人の犠牲となった子供の家族を呼び集め彼らと復讐行為を共有する。この二つの「親切」こそがクムジャ(イ・ヨンエ)の、そしてパク・チャヌクの「親切」なのだ。
ひとつは、私たち(女囚=観客)は後ろめたい人間だが、可哀相なクムジャの力となって彼女の復讐を成功させることで償いをするのだ、という負のカタルシス。もうひとつは、私たち(被害者=観客)はちっとも悪くないのに辛く苦しい目に合っているのは、犯人(社会悪)のせいなのだ。それを懲らしめて何が悪い、という正のカタルシスだ。
クムジャを軸にしたこの2つの復讐の共有化が、いつの間にか観客に伝播し観客自身も気付かぬうちにカタルシスを得るという見事な構造を有している。パク・チャヌクは、持ち前の映像感覚でエンターテインメント路線を突っ走りるふりをしながら、着々と映画としての深みや厚みを生み出す技を磨いている。
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