[コメント] カミュなんて知らない(2005/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
面白かった。
この面白さの正体はなんだろう?
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1あからさまな他作品の引用、映画の最中に登場人物に 技法の説明をさせるところ、 これを「あざとい」と思うひともいるだろう。しかし 私には、これはばらすことで「あざとさ」を回避しているように 思われる。
冒頭の長回しの説明シーンは、むしろ私たちにこの映画が 「映画とは何かを考えながら作られた映画」であることを意識させるものだ。
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2 この映画は、学生たちの映画製作をテーマにした作品である。 学生たちは、2000年に豊川市でおきた実際の殺人事件をテーマに映画にしようと している。
「人を殺す体験をしたかった」という言葉をのこしたこの事件の犯人の少年を どうとらえるかで、学生たちはもめる。 この殺人者が、正常だったのか異常だったのか、 この殺人者には、動機がなかったのか、あったのか、 この2点は微妙に交錯している。
「監督」の松川は「異常であり、動機があった」と考える。「助監督」の久田は「正常であり、動機はなかった」 といいはる。もちろん、動機があって殺害する方が正常であり、動機なしに殺害する 方が異常である、という理解もできる。この殺人の実際の裁判では、「精神異常」という言葉で、 保護処分となった。
松川からすると、「映画づくり」をしなければならないのだから、この少年に 動機があってもらったほうが楽なのである。なぜならストーリーが生まれるからだ。 同様に、少年を守る立場の人々からすると、彼が「精神異常」であるほうが楽なのである。 なぜなら、彼らのストーリーに沿った活動ができるからだ。
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3 この映画には、様々なストーリーの萌芽が描かれている。しかしあくまでパロディ調 に。 元映画監督の中條教授は「ベニスに死す」の主人公になっていく。(切ない混沌とした音が 次第にマーラーになっていく音楽の見事さも特筆すべき。) 「監督」の恋人ユカリは「アデル」になっていく。
「助監督」は、恋人の不在中に3人の男性と接吻して、そのことを恋人に告白するが、そのとき 本気かもしれなかった一人の名前だけは明かさない。あるいは明かせない。 このときもおそらくストーリーが生まれている。恋人の大事さを実感する 少女の物語だ。 あるいは浮気心を隠して、愛を誓おうと決意する少女の物語だ。
しかしすべてがパロディ的にならざるを得ない。人間はこういったストーリーを練りながら生きている 生物なのだろう。
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4 この映画には「得体の知れないもの」が数多く表現されている。
登場人物では、 俳優の池田、ユカリ、美少女レイ、美術の大山、スクリプターの綾・・・ 彼らを私たちは愛することはできる。でも、この映画からは彼らを理解することは 不可能だろう。 殺人犯人が理解不可能なように、実は彼らも理解不可能だ。 そして同様に、松川や久田、中條も理解不可能であることがわかってくる。
最後の「殺害シーン」に不気味さを感じるとしたら、まさに私たちが その「得体の知れないもの」を意識しているからなのである。
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