[コメント] 夜と霧(1955/仏)
映像は、単に物体の像を記録して、それを銀幕に、モニタ上に映し出すだけだ。私はその物がかつて何者であったかを知らない。その死体がいつ生まれた何処の誰であったかを知らない。虚ろな眼やくり貫かれた頭蓋が、かつて何を見て何を脳裏に映していたかを知らない。だからそれは今この私にとっては単なる「死体の山」であり、「人類の蛮行の記録」に過ぎない。それが人間である、というだけでは共感など生じえないのは、収容所の現実が端的に現わしている。(三百人劇場という場所ではじめて日本語字幕版を観たが、じつはそれ以前にも確かドイツ語字幕版で観たことがある。だがドイツ語もフランス語も満足に出来ない自分には、それらは何処かで見たことのある「死体の山」の映像に過ぎなかった。メディア上の映像に毒されすぎてしまったからだろうか。)
『シンドラーのリスト』。ジョン・ウィリアムズの手懸けたメロディは流れてくるだけで涙腺が緩んでしまう。あの映画はこの映画が語るだけで再現することなど(倫理的に)出来ないとしたことを、いとも容易く(極めて巧妙にではあるが)再現する。そしてそれを受容する私もまた、この映画よりはあの映画の出来合いの巧妙さに泣かされる。何かを感受できたような気になる。「人類の悲劇」として記憶し直される収容所、ユダヤ人絶滅計画。
『SHOAH』という映画もある。これは570分にも及ぶ長大な記録映画だが、この映画が記録するのは映画製作当時(1985年)に生き残っていた収容所からの生還者や元ナチス高官へのインタビューであり、そこで彼らの口から引き出されるかつての記憶の物語りであり、その表情だ。暴力的な神話性に彩られたナチスの映像も、かつては無数の生きた人間だった死体の山も映し出されはしない。
映画によって立場が違う。どれが真っ当でどれが間違っているということは死者に対する倫理的な態度を如何に取るか(撮るか)という問題なので、安直には言えない。一つだけ思うのは、人を人とも思わないような奴は、百万年でも地獄の業火に焼かれたらよいということ。だがそうとすれば、死体の山の映像を何気なく見詰めているこの私だって同罪かもしれない。
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