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[コメント] 淑女は何を忘れたか(1937/日)

小津安二郎の倫理。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







終盤で斎藤達雄桑野通子栗島すみ子が「対決」する場面。栗島の和装に対して、斎藤と桑野はともに膝まで届く丈の長いコートに中折れ帽という非常に似通ったモダンな洋装。つまりここでは、斎藤・桑野の心理的な一致(共闘関係)が衣裳の一致として、斎藤・桑野と栗島の心理的な対立が衣裳の対立として表象されている。また、このとき斎藤・桑野はともにコートのポケットに手を入れ、お互い影のように寄り添いあって立ち、歩いている。ふたりが栗島に呼び止められて立ち止まり、振り向く瞬間は完全に一致しており、その様はまるでダンスの振り付けのようである。これも斎藤と桑野の心理的な一致を意味している。さらには、進歩的な(自己の欲望に忠実な)桑野と保守的な栗島の思想的対立は、そもそも桑野の「大阪方言」と栗島の「山の手言葉」という使用言語の異なりによっても表されている。

心理や思想の一致にしろ対立にしろ、それは本来不可視のものだ。その不可視のものをどのように映画的に表現するか、即ちどのように視覚的または聴覚的に提示するか、というのは映画をつくる者が対峙する主要な問題のひとつである。その意味では、心理的な一致/対立を衣裳・動作・言語の一致/対立によって提示するという上の小津の方法はありふれたものであるのかもしれない。しかし私がこれらの瑣末な、そしてすでに何万回も指摘されたであろう事柄を持ち出してまで強調したかったことは、これらの例にとどまらず、小津は徹頭徹尾視覚的・聴覚的だということである。

小津の作品に触れて「余情」だとか果ては「わび・さび」などといった曖昧で漠然とした抽象的概念を思い浮かべ、そこに感動を覚える者は多いだろう。私にもそういったところは大いにある。しかしながら、そのような「余情」を感じさせる場面ですら、小津の提示するものはひたすら視覚と聴覚に訴える具体的で即物的なものである。それは、畢竟は視覚的・聴覚的要素に還元されたものでのみ構成されざるをえない映画に対する小津の倫理であり、その倫理的な態度によって小津と凡百の映画監督たちとは残酷なまでに隔てられている。

(評価:★4)

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