[コメント] パッチギ! LOVE&PEACE(2007/日)
かつて、誰も臆することなく「愛と平和」を口にした時代があった。思えばそれは、本作品の背景となった70年代半までだったかもしれない。この「愛と平和」を観て、何をいまさら浮ついたことをなどと感じたとしたら、それは我々が「愛と平和」に満たされているからではなく、鈍感になってるからだ。ある時期を境に、日本に暮らす人々にとってこの言葉が持つ意味は矮小化され続け、今に至っているのだ。
乱暴を承知で言えば、今の時代(社会)に愛といえば、消費されることを前提にメディアが垂れ流す恋愛のことだ。当然だが、恋愛の最大の関心事は自分が相手からどのように思われるかであり、消費される恋愛は簡単に心地よい自己愛へとすりかわる。自己愛は恋愛という夢物語の姿を借り麻薬のように蔓延し、いつしか感動という名の発露となってさらに人々を消費へと導く。今、世の中に溢れているのは、操作された過剰な自己愛と感動だ。本当の愛は、感動や、まして涙などとは無縁なのだ。
本来、愛とはあくまでも自然発生的な感情だ。やれ郷土愛が足りない、やれ愛国心を持て、などど強要されるべきものではないのだ。しかし、我々が矮小化された自己愛という愛にうつつを抜かし、本来の愛の対象を見失ったとき、その隙をついて必ず愛を強要しようする一群が立ち現れる。
彼らが強要する愛の後ろ盾は「平和を守るため」という誠しやかな美辞である。「日本は一見、平和な国である。しかし、世界は紛争に溢れ、我々は実は常に危険にさらされているのだ。平和ボケしたお前にはそれが分からないのだ。さあ、もっと家族を愛せ、国を愛せ、そして平和を守るために武器をとれ」。これが彼らの常套句だ。
愛は家族や国にだけ向けられるべきもではない。世の中の全ての事象に対していだかれるべきものなのだ。すなわち、平和とは固有のもののために守るものではなく、全てのものが享受できるよう不断の努力によって作られるべきものなのだ。これこそが、かつて皆が一度は共有したはずの、そして井筒和幸が本作で描こうとした「愛と平和」なのだ。
もし、政治という言葉を「正義や最大多数の幸福の達成」という定義で使うとしたら本作は、まさに政治的な映画だ。何故なら、アンソンの父親までも含めた一家個々人の愛は限りなく全ての対象に向けられており、過去から現在、そして未来へと向かう彼らの行動原理の起点は平和を作り出そうという願いから発せられているのだから。まさに今は、「愛と平和」のために感動したり、泣いたりしている時ではないのだ。私は、この井筒和幸の意志を支持する。
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