[コメント] 夕凪の街 桜の国(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
われわれの持ち時間は少ない。原作者をしてこの主題に挑ませたのも、そうした切迫した想いではなかったか。七波と凪生を作品化し、映画化するのは今しかない。
原作者のこの言葉は自然な高さから発せられたと信じるが、映画でもそれが宣伝コピーとして用いられた事には不安を感じた。原作ではこの言葉は2行で記されている。(cf. 映画では4行になっている。「広島のある/日本のある/この世界を愛する/すべてのひとへ」)
…というのは、先日の参議院選挙で「日本人でよかった。」というコピーをポスターに掲げて東京選挙区から出た候補が居たからだ。似て非なる言葉だが、似ているのは事実である。日本人でよかった、という言葉には言外に「他国人に生まれなくて良かった」という差別を生む危険を孕むのである。日本人が日本に生まれたように、中国人が中国に生まれ、韓国人が韓国に生まれる訳だが、そういった方向にこのコピーは捉えがたい。内に向いているのか、外へ向いているのか、という問題である。
原作では"運命"と"個"の問題へ収斂してゆく。そして"個"は運命を受け入れる事により、その"外"へ乗り越えてゆくのだ。だから映画を観た時、皆実が大勢の中にあるひとつの"個"でなく、一つの"典型"のように描かれているのに違和感を感じた。 麻生久美子も藤村志保も堺正章も(その他の役者も)、役柄に縛られて自由に演技できていないように見えた(田中麗奈は…あんまりイキイキとしてなかったね…)。
監督の姿勢の影響もあるだろう。佐々部監督は「凛とした」という言葉が好きだといい、そういった人びとを描きたいのだという。そして藤村志保はそういう女優だと絶賛する。成る程、祖母フジミが老いて認知症気味になる場面の違和感はそのあたりか、と腑に落ちた。『原爆の子』('52年)で描かれる本物の原爆スラムとこの映画、川遊びする子供などについても丸で違うので、時間がある人はこっちも一度観て欲しいと思う。
別に凛としてなくてもひとは生きていっていいのである。
ともあれ普段辛口である連れ合いの評判は良く、その意見を聞いて俺もすぐに気を取り直した。髪留め・写真・時をかける七波、の3手はみな確かに成功している。弟の旭が広島に帰りたくない心情など、成る程と思わせる描写もあった。そこそこの出来でも制作した事、それ自体を評価したい。
因みに先述の参院候補は無事初当選したが、そのお蔭で同じ党のベテラン議員は弾き出されて落選してしまった。その元議員のポスターのコピーはこうである。
「凛として東京!」
◆ ◆ ◆
(追補) 原作との比較をする心算が、実際には別の話題(映画とも原作とも関係のない私の勝手な連想)になってしまい、本当に「愚」な事になり、申し訳ございません。原作の素晴らしさに関しては私の拙文ではとても書き尽くせないので、他をご参照下さい。ただ、この映画に関して私が感じた事は概ね上記の文章で述べた中に収まっております。この監督でなくとも、今をおいてこの作品が映画化される事は恐らくなかったでしょう。私は、自分の子供にもこの作品を見せるかも知れません。しかし映画と原作は同じではないという事は言い添えるでしょうし、仮に映画を見せる事がなくても、原作本は必ず渡す事になるでしょう。
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