[コメント] サッド ヴァケイション(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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だが、この映画に対する「アクロバティック」という形容が少なからず的を射ているものであるのならば、それはむしろ当然のことだろう。云うまでもなく、アクロバットとはまさに日本語の「軽業」を指す語だからだ。また、見る者に「軽やかさ」の印象を与えるアクロバットは、しかしそれを実際に演じるものにとっては重力や身体の限界との絶え間ない闘いに違いない。本作における青山の演出は余裕すら感じさせるが、やはりアクロバットと同様に、それはストイックな苦闘の成果なのかもしれない。
さて、この『サッド ヴァケイション』における浅野忠信はとりあえず「変わる」という現象によって特徴づけられる人間だと云ってよさそうだ。密入国斡旋業者から代行運転手、そして運送会社の社員へと次々に職業が変わる。さらに中村嘉葎雄が発熱で床に伏せれば社長(の代わり)にまでなってしまう。もちろん「彼は一貫して『運ぶ』職業に就いている」とも云えるし、それはしごく正当な指摘でもあるが、職業が変わるたびに律儀に髪型と衣裳まで変わる浅野は、やはり「変わる」ことを担わされた人間であると云いたい。
また、変わるのは職業だけではない。冒頭で中国人少年の父となる浅野は、間宮運送に赴くことで石田えりの息子となり、高良健吾の兄となる。終盤においては石田によって板谷由夏の夫にさせられるし、辻香緒里の兄にまでなってしまう。そして板谷との間に出来る子供のほんとうの父親にもなるだろう。さらに、復讐者であったのが殺人者・服役囚に変わってしまうという点も付け加えてよい。
このように次々と職業や肩書きが変わり、周囲との新たな関係を結びつづける浅野に対しては現実離れしているとも滑稽であるとも云いうるかもしれないし、その「変わる」瞬間は時に省略さえされてしまう(=説明的描写を欠く)のだが、しかし浅野が「変わる」ことに疑問を挟む余地はまったくない。それはもちろん浅野の説得性に富むすばらしい演技のためでもあるのだが、何より川津祐介が云うように、この作品世界には「偶然」など存在しないからだ。すべては「必然」であり、しかもその必然は「Aが起こったからBが起こった」といった類のものではなく、明確な理由(A)を欠きながら結果(B)だけが次々と生起してしまうという狂暴きわまりない必然なのだ。それは映画の話法のレヴェルで云えば、たとえば頻発するフラッシュフォワードによって保証されている。
そのようなことを成し遂げてしまう青山の作劇・演出は実にアクロバティックなものであると云えるし、そのアクロバティックなさまは非常に感動的でもある。しかし、この映画にとってもっと重要なことは、「変わる」浅野に対して、「変わらない」石田が配されていることだろう。石田が「変わらない」のは本能か計算か、愚鈍だからか聡明だからか、あるいは単に「母」だからか。いずれにせよ石田が「変わらない」ことに変わりはなく、石田はただ「変わらない」ことで、「変わる」浅野を翻弄し、包み込み、殺人に駆り立て、そして待つ。これが浅野と石田の「対決」であることは間違いないのだが、むろんどっちが勝ったどっちが負けたという単純なものになりえるはずもなく、この壮絶な対決を云い表すのに適当な語を見つけられない私は、さしあたってもう一度「アクロバティック」と云ってみたい。
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