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[コメント] スラムドッグ$ミリオネア(2008/英)

力に溢れたショットと、小気味良い編集でぐいぐいと引っ張る巧みさ。幼少期の大きく澄んだ瞳が一転して、力なく脅えたように彷徨う青年期のジャミールの定まらぬ視線の物悲しさ。大胆さと繊細さが織り成す外見上の映画としての見てくれは実に心地よいのだが。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







後半に入り、話はみるみるうちに予定調和へ向かって突きすすむ。なんだそうか、これは他愛のないラブストーリーでありファンタジーなのだということは理解しつつも、運命(destiny)という言葉に引っかかってしまった。ジャマールがクイズ番組に出演した目的は、賞金目当てではなくラティカとの再会の手段としてであり、結果的に大金を手にしたことではなく彼女と結ばれたことが運命(destiny)であったと位置づけられている。

ジャマールやラティカの子ども時代からの過酷で悲惨な生活が克明に描かれながら、その状況はあくまでも物語の背景、すなわち制作者側から与えられた物語を面白くするための状況設定でしかない。いささか極端な言い方を許してもらえれば、制作者たちは主人公たちの貧困や被差別状況を、何の躊躇も自戒もなく、まさに彼らの当然の運命(destiny)として、あっさりと容認しているように見える。

もちろんカースト制が、他の人種差別や民族差別ほど単純ではないことは分かるのだが、身分制度としての下層階級をあまりにも無自覚に扱っているように見えてならない。この物語でジャマールやラティカは、大金を得ようが仲良く二人で暮らそうが運命(destiny)によって強いられた身分制度からは決して逃れられない。そんな二人のささやかで限定的な幸福をみて、心地よい夢を得たような気になって満足しているのは、実は制度の外側にいる作り手と観客である我々だけではないのか。

観終わった後、どうにも私の気分がさえないのは、弱者の本質に無自覚なまま、あるいはあえて無視することでこの作品が成り立っているように感じてならないからだ。自らの優位さを担保したまま成立した制作者と観客の関係は、自らの幸福のために弱者を利用した歪んだカタルシスしか生まない。そんな警告の意味を込めて2点。

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以下、追記します。

■スラムドッグの憂鬱

「スラムドッグ」子役たち〜家撤去で路上生活に

今、手元にある2009年5月15日の朝日新聞夕刊(12面)に、こんなタイトルの記事が載ってるのを見つけた。以下に記事の趣旨を要約抜粋して転載する。

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 インド紙タイムズ・オブ・インディア(電子版)によると、ムンバイ市当局が映画「スラムドッグ$ミリオネア」で子役を演じた約20人の子供たちが住むスラム街の住居を撤去した。  中心人物の子供時代を演じたアザルディン・イスマイル君(10歳)は「行く場所がなくなり、暑い中、路上にいるしかない。今日は食事も食べられるかどうか分からない」と沈んだ様子で話した。  地元州当局は、主役級の子供たちに住居を提供する約束したが、実現していないという。

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私の暗澹たる気分の一端を代弁している記事だ。

端的にもう一度書くと、映画「スラムドッグ$ミリオネア」は、カースト制という階級制度の悲劇をいとも単純に「運命」というファンタジーに置き換え、あたかも「希望」がスクリーンに存在するかのような錯覚により商業的成果を追求し、インド当局もまた制度撤廃の掛け声とは裏腹に、階級の存在を既成事実として(つまりは既得実利として)容認しているように感じられたのだ。

(評価:★2)

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