[コメント] グラン・トリノ(2008/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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白・黒・黄色の異文化コミュニティ、保守と新自由主義、アメリカ的正義とキリスト教的原罪意識、軍人の勲章と職人の勲章などなど、舞台や主人公の設定はかなり材料豊富なので、つい「ゆえに」とか「しかるべく」とかって論旨で物語を帰結させたくなりそうなのに、そうならない語り口が何と言うかイーストウッド監督らしい。
監督の諸作品に出てくる人々は、現実の世界で生きているわれわれのように、偏っているし、あやふやだし、結論から逆算した人生を歩んでいないし、物語を支配している原理を(その人らしくもなく)代弁したりもしないことが多いと思う。一言で言うとはっきりしていない。なので往々にして「何が言いたいんだか明確でない」ことも多いように思うのだが、架空の世界で生きている登場人物がそこで体験していることを、できるかぎりそのまま味わわさせてくれるものだとも思う。これが論文ではない、物語ならではの良さだと思う。
本作は、登場人物がきわめて自然に感情を推移させ成り行きを生きているようにしていながら、かつ作劇的面白さも損なわず、フィクションとして絶妙なバランスでまとまっていると思う。あらゆる登場人物が自然に「その人らしく」あり、完璧なバランスを保っているフィクションたるには、周到に計算された演出が施されていて、例えば、神父が最初の頃主人公に相対する時はポケットに手を突っ込み、何度注意されても愛称で呼びかけるのは、彼なりの人生経験に基づく判断なのだなと思わせ、これが主人公にしてみれば「こいつも俺にリスペクトできないのか」としか思わせないのだが、スーの襲撃を受け「私個人なら復讐を考えます」と言った時には、彼をサン付けで呼んで、片手でビールを2本つかんで主人公に渡すのだ。これがポケットに手をつっこんでいるよりもワイルドに見えるわけだ。要は「わかっている奴」と主人公に思わせるまでに変わったと思わせる巧みなキャラ造型の演出なのだ。
舞台背景や主人公の設定は、社会的な背景にしっかりのっとっているのに、そんなことを知らなくても、本作は、強い信条があだになって偏屈な生き方をしている頑固爺さんの話として誰にでもよくわかる物語である。私は平日の昼間、郊外のシネコンで本作を観たので、観客は年配の夫婦やおばさんの友達同士という組合せが多かったが、間違いなく自分たちの身近な年寄りの話として楽しんでいたと思う。
じゃあ、バースディケーキを持ってきて老人ホームへ入居をすすめてきた息子夫婦に腹をたて(苦虫をかみ殺したような得意の表情で対峙している面白さ)たたきだすというステロタイプかといえば、そんなことはなく、他人にはよくわからないその人のルールってもので生きているあくまで特殊なその人個人なのである。類型ではなくその人個人をしっかり描き込んでいることで、タオを傷つけたチンピラを銃で脅したことがその人その個人の考えでしたことで、そのことでかえってスーが暴行され家が銃撃され「おれは余計なことをしてしまったのか」と狼狽するところを見て、観客は「自分が自分の判断で引き起こした痛恨」の自己体験を重ねあわせるのだ。
本作の中でもなにより素晴らしいのは、チンピラたちをタオたちから半永久的に遠ざけるための、彼のくだしたたったひとつの冴えたやり方の場面だ。主人公のトラウマの浄化であり、実際の5対1の決闘における唯一の勝ち目であり、古きアメリカの死でもあり、マカロニウェスタン俳優クリント・イーストウッドの幕引きでもあるという、多重のメタファーを内包しつつ、この場面がオチとして先に決まっていて、ここから逆算して物語が作られたような感じが一切しない、本当にこの主人公の男が自分の原理で考えた末に辿り着いた結果としか思えないような「神」シーンだ。これとてライターの小道具、黒人チンピラとの対峙、指鉄砲などの伏線を配置してこそで、まさに神は細部の演出に宿るのだ。
劇場の婦人たちを笑わせ、感動させているもう80歳の爺さん。グラン・トリノ〜♪エンディング曲の詞まで書いてるの? かっこよすぎだ。
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