[コメント] 無法松の一生(1943/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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あるいは、全篇が走馬灯のように、どこか夢のように語られた映画だと云えるかもしれない。おそらく意図的なものだろうが、シーン間の連絡はじゅうぶんに円滑ではなく、往々にしてぶつ切りの感を催させる(やはり検閲によるシーン削除も影響しているだろうか)。しかしそれが各シーンに瑞々しい鮮度と、夢のようにもう手の届かない距離感を与えている。せいぜい数シーンにしか出演しない月形龍之介・永田靖・杉狂児らもなんと「立派な」大人だろう。彼らと築かれる理想的な人間関係も、しかし私たちにはもはや手の届かないものなのだろうか。
そして「夢のよう」ということで想い起こされるのは、人力車を引く阪東のアクションだ。力感に溢れ、だが目を疑うほどに滑らかで、脚部だけをハイスピード撮影したかのような「遅さ」の回転運動。その印象は、やはり歯を喰いしばりながら涙せざるを得ない徒競争シーンとも通じる。同時代以降の映画文法はもちろんバスター・キートンやチャールズ・チャップリンに代表される無声スラップスティック映画とも異なる地平で迫真のアクションを成立させている。一方で、序盤における芝居小屋での大喧嘩が現代映画にもお手本にしてもらいたいスペクタクルな空間把握をもって演出されていることも銘記しておきたい。
ところで、驚愕のクレーンワークに始まるファーストカットからラストカットに至るまですべてのカットが創意を尽して、丹精を込めて撮り上げられたこの映画にあっても、私にはとりわけ「空」の画面が印象深い。太鼓シーンに重ねられる入道雲はむろんのこと、阪東が客をほったらかしたまま凧だか風船だかの糸が絡まった沢村の世話をするシーンにも大きな大きな空が写し込まれている。あるいは阪東が子供時代を回想するシーンにも。この黒白映画の空は当然現実のそれとは似ても似つかない。だが私はこの「美しい」空を目にするために映画を見ているのではないかとまで思うことがある。
最後に瑣末ではあるが本質的なこととして、阪東の話す小倉言葉について触れておきたい。もちろんそれが実際の小倉言葉にどの程度忠実なものなのかを私は知らないが、しかし彼の口にする非-標準語がこの映画の果てしない豊かさに寄与しているところは決して小さくない。
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