[コメント] シルビアのいる街で(2007/スペイン=仏)
ホセ・ルイス・ゲリンは「映画的」とは何事かをよく知っている。映画的な道具立てだけでできていると云ってもよい。窃視と尾行。音響の立体的定位。反射/透過装置としての窓、とりわけ車体の全面を覆う市電の車窓。しかし熱心な勉強家の発想を大きく出るものはない。最大の参照項は『飛行士の妻』か。
もちろんすこぶる面白い。傑作だ。だがこうも「映画的」ばかりを連発されてしまうと、もはやこれは観客への媚びと云うべきではないかとさえ思えてくる。すべてが「映画的」という尺度で捉えきれてしまう(少なくとも、そう私に錯覚させてしまう)。荒々しく理解不能な野蛮さに欠けている。ビクトル・エリセやホウ・シャオシェンの境地にはまだ距離がある。また、通行人エキストラに至るまで、人物の所作やフレームへの出入りのタイミングは完璧に計算されている。計算された面白さはやはり存分にあるが、ジャック・タチ『プレイタイム』やクリント・イーストウッド『チェンジリング』が同じく完全に制御された状態においても世界の深度を触知させるような何かを持っていたのと比べると、どうにもスケールが小さい。収まりがよすぎる。「映画的」であることに自足している。
以上のことが顕著に感じられるフィックスよりも、移動撮影のカットのほうがずっとよい。
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