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[コメント] ブルーバレンタイン(2010/米)

シンディを後背位で好き勝手に突いた揚句、予告もなく中出しする元カレ・ボビー。
田邉 晴彦

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







その元カレと近所のスーパーで偶然再会したことを現夫・ディーンに事も無げに報告するシンディ。乗り気になれないシンディにセックスを求めるディーン。過去の威厳を失い好々爺になりさがるシンディの父親。他者の痛みに無神経な人々が、他者からの愛と労りを求めて傷つけあう物語。

この作品では、主人公夫婦の「結婚前(過去)」と「結婚後(現在)」を描写する映像を巧みにカットバックさせることで、愛の始まりと終わりを同時並行で語っていくというユニークな手法が取られている。クエンティン・タランティーノ監督の作品でこのような時間軸の交差はよく見受けられるが、タランティーノのそれが観客にサプライズを与える、いわばツイストとしての役割を果たしているのに対して、本作のそれは作品のテーマをより如実に、明確に浮き彫りにするために活用されている。それは、男と女の「変化」である。総じて言えば、ディーンは「変化」せず、シンディは「変化」したのだ。

本作をその構造通り、「結婚前(過去)」と「結婚後(現在)」という時制に沿って評論・批評する態度をそこかしこの雑誌、WEBサイトで散見するが、そうなるとどうしても個人的なバックボーンを論拠にした水掛け論に陥りがちで、的を得ない。(まあ、そういう結果を狙った作品ではあるが)特にシンディの内面の変化に説明がつかないのではないだろうか。あれでは、関係修復の努力をしようとする夫に対してあまりに冷淡であり、身勝手であると感じる観客も少なからずいるのではないだろうか。それを「女心「男と女のラブゲーム」といってしまえばそれまでだが、別のストラクチャーで捉えなおすと結構腑に落ちるものがあったので忘れないうちに記しておきたい。

それは「結婚前(過去)」と「結婚後(現在)」ではなく、「出産前(理想)」と「出産後(現実)」の対比である。つまり、シンディは“女”から“母親”へと「変化」したのだ。男(や社会)に対して受動的な女だったシンディは、妊娠を境に自覚的で自活的な母親になっていく。望まない妊娠ではあったが、堕胎処置をうけるまさにその瞬間に母性に目覚め、出産を決意する。稼ぎのない旦那に代わり、プレッシャーのきつい医療の現場で汗を流す。出産後の彼女は明らかに能動的であらんとする意志によって突き動かされている。そのため、受動的だった頃の自分からすれば「愛と自由の戦士」に見えた夫が、実は単なるグータラのボンクラだったという事実を思い知り、どうしようもない失望を覚えるのである。

マザー・テレサ曰く、「愛情の裏返しは憎悪ではなく、無関心」とのことであるが、シンディはかつて愛した(はずの)夫・ディーンのことを、今でも決して憎悪はしていない。ライアン・ゴズリングの役作り(主に外面)が徹底しているため、「禿でデブでイーグルが刺繍されたトレーナーを着用するかつてのイケメン」は部外者の観客からすれば明らかに男性としてのセックスアピールの低下させているが、少なくとも作中でシンディはまったく意に介していない。そこに言及したり、その一点で夫を責めたり、というようなシーンはまったくないからだ。むしろ、ディーンを深く傷つけ、苛立たせるのはシンディの「無関心」な態度である。そして、その態度を醸成しているのは何といってもディーンの甲斐性の無さであり、それはつまり子供を養育するに値しない彼のガキ臭さだ。イノセントだ。それはかつてかよわき女シンディを魅了し、励まし、支えた彼の美徳ではあるが、母親となった彼女からしてみれば、無用の長物に他ならない。彼女が必要としているのは、夢の中の心優しきボーイフレンドではなく、現実世界の生活力に満ちた夫なのだ。

だから、彼女は別離を選び、彼はそれを受け入れる他ないのである。

辛いが真摯な映画だと思う。

補記1

女はイライラの理由を語らず、勝手にフラストレーションを溜め込んでいく。男に非があるにせよ、それは女性特有の理不尽な振る舞いである、という男からの指摘に対する中村うさぎさんのコメント。「(女が黙っているのは)男にあまりにも核心に触れることを言うと逆ギレされて面倒くさいから」

補記2

Penny & the Quartersの『YOU and ME』。“僕と君がいれば他に何もいらない”という甘美な詞は時を隔ててその効力を失うが、メロディは切なく美しいまま。

補記3

夫婦(カップル)の邂逅と別離をテーマにした類似作としては、『500日のサマー』(マーク・ウェブ)『レボリューショナリー・ロード』(サム・メンデス)が記憶に新しい。日本でもこういったテーマを今日的な手段と手法で語り直しても良さそうだが、その際にはぜひ橋口亮輔監督にお願いしたい。もちろん、個人的な願望として。

補記4

本作を観ながら連想した楽曲がある。GLAYの『HOWEVER』。愛の旅立ち、更には婚姻儀式を想起させるメジャータイトルであり、一見甘美な恋愛賛歌であるが、タイトルは実は意味深い。以下、孫引きで申し訳ないが、記しておきたい。

リーダーTAKUROのインタビュー(『別冊カドカワ』1999年)より

「HOWEVERっていうタイトルに行き着くまでには2,3カ月かかった。日本語にすると「しかしながら」でしょう。否定的な意味を持つよね。こういう美しいラブソングでハッピーエンドではあるけれど、俺はどこかそういうピリッとしたものがほしかった。例えば、「卒業」っていう映画を思い出してもらいたいんだけど、そのラストで彼はウェディングドレス姿の彼女を教会からさらってバスに乗る。映画はそこで終わるけど、実際はそうはいかないでしょ。その後一体どうするのかというところも人生には含まれてくるよね。そういう話を井ノ口さんとして、なんか甘ったるいだけのラブソングを書いてもなぁという気持ちになってね。歌詞としては完成したと思ってたからそれ以上手を加えることはなかったけど、タイトルでそういう思いを表現したかった。」

以上

(評価:★4)

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