[コメント] 風立ちぬ(2013/日)
偏執的とでも言いたくなる「風」の描写に対するこだわりなど、技術的な完成度の高さばかり印象に残り、観終わって2週間以上経つのに感想が定まらない。どうにも得体のつかめない映画だ。この夢想物語の語り手が、思考や主張することを放棄してるからだと思う。
私たちは「正しさ」を常に求められる。しかし、正しいと信じるものが、本当に正しいものとして機能しているとは限らない。それは堀越二郎が生きた時代であろうが、例えば原子力という矛盾を抱え込んでしまった現在であろうが同じだ。さらに、陸、海、空に継ぐ4番目の戦場と言われるサイバー空間に夢を馳せるIT研究者や技術者など、さながら現代の堀越二郎だ。
そこから「ある時代を生きる者は、必然的にその時代の矛盾をかかえこむ」という命題が抽出される。当然、物語は矛盾=二郎という個人に行き着くのだが、宮崎駿の思考はその先の個人の内面へ入り込もうとはしない。いきおい話しは矮小化されてしまう。「矛盾は時代の必然」なのだから二郎のように淡々と日々を生きてベストをつくせ、というお気楽な個人の肯定と礼賛で思考は停止する。
今回、宮崎はファンタジーを捨てて、実在の人物と史実としての困難な時代を自ら選択しリアリティを志向したようだ。そうであるなら、あの時代を生きた人物の内奥にせまることなく、つまりはあの時代と人物によって生み出された矛盾を執拗に追及することなしには、いかなる「創作」も成り立たない。
〈あきらめ〉と〈満足〉が両立しているような奇妙な二郎の、中身のない幻影を見せられても、何の感慨もわかないのだ。今まで夢想の中で漠然とした理想のようなものを語ってきた宮崎だが、今回は生身の人間と時代について語ってみようと試みたが、結局は何も語れなかったということだと思う。
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