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[コメント] CURE/キュア(1997/日)

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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「見ているモノ」が「見ていること」を侵蝕していく。甘美な虚無の穴に落とし込まれて、気がついてみれば脳裏に否定の×印。この映画が見ている者を戦慄に落とし込むというのなら、それはこの映画を見ていることが心地好いと感じられてしまう、まさにそのことに因るのだろうか。私は何を見ていたのか? だが気がついた時には、具象となった凶器が私の脳裏に焼き付けられている。逆説的なCURE(癒し)映画。

映画(フィルム)はいつも断続的に流れていく。動く画はまるで時を蔵した実体のように振る舞う。けれどそれは見せ掛けだけのことで、映画はいつでも容易にその脈絡を切断し得る。この映画は、それを映画として実践していく。その切っ先は、勿論決してめくら滅法に振り回されているわけではなく、韻を踏みながら鮮やかに、ごく在り来たりな因果律を外科手術のように解体縫合しながら、映画的なテロルの一瞬を現出させる。その手際が非常に気持好い。ラストカットは言わずもがなだが、高部と奥さんの関係には愛憎の相反を僅か数カットで具現してしまう一瞬があって、それでいて叙情性さえ滲ませている。

難点。名のある役者をつかうことで、映画は具体的肉付けを得ているかに見える。だが彼らが背負う人生の肉付けはあまりに貧弱(削ぎ落とし過ぎ?)で、その為に映画のスタイルがそれ自体として自足してしまっているきらいがあるように思える。これは勿体無いことではないか。監督は喋ることで人を追い込む(吸い込む)挑発的な怪物を描き出そうとしたらしいが、確信犯然として「あんた誰?」と尋ねるだけのスカした青年程度には、大の大人は動じまい。社会から逸脱した人間は何者にも敗北することはないだろうが、何者に勝利することもない。何故なら彼は何者でもないのだから。予め聴く耳を持ってしまっている者だけが犠牲者となり、また新たなるテロライザー(『恐怖分子』)となるが、それは予め聴く耳を有してしまっているものだけに限られる。実際そこらにいそうな俗物である(けれど現実の社会の中では力を持つだろう)警察署長のような人物は、その物語から排除されていくしかない。現実の手応えを予め失うことで成り立つ、空転する殺意による癒し(自己充足)の映画。これでよいのか、わるいのか。…監督がこの映画を「日本映画的」と語っていたのはそういうことなのだろうか。画面を横断して切裂いていくウェイトレスの手に握り締められた刃。潜む凶器(狂気なんかじゃない)。テロルの予感。つまり、日本暴力映画の末裔ってことか。

ちなみに、この映画の中で起こる事象に心理学的(その他の)解釈を与えても、それは心理学的(その他の)解釈に過ぎない(劇中の高部はそれを放棄することで変貌した)。もとより映画に映し出される人物には心理なぞ存在しない(しなくても構わない)というのがこの映画だから。その志向は、あらゆるものを解釈して歴史的な脈絡へと織り込んでいこうとする政治的な力への、潜在的な反抗(反攻)の意志でもあるのかもしれない。この映画の企画の端緒になったのは『セブン』だそうだけれど、あの映画とこの映画の決定的な相違は、追うもの(刑事)が追われるもの(犯人)を射殺することの意味の在り方の違いに集約されていると思う。高部は、自らの意志で間宮を凌駕する。

薄汚れた中年男万歳!(戦後日本的)ブルーカラー万歳!な映画(と、思う)。(日本の場合、ブルーカラーともホワイトカラーとも言えない、潜在的にいつまでも“遅れてきた青年”のように生きている中流層が確実にたくさんいる。)

余談:初めてこの映画を見たのは新宿のクソ狭い劇場(50数人しか入らないところに満員状態)だったけれど、その時は正直「これでよいのか」と憤った。こんな「首切って、スカッ!」みたいなどっかのB級映画の宣伝文句みたいな世界の提示に納得させられちまってよいのか!と…でも気付いてみると、そんな自分もいつのまにか手に見えない凶器を握らされていた。黒沢清ってやはり青年だと思う。そして青年には稚気がつきものだ。(でも稚気に徹しきれないのも、やはり青年な黒沢清、かも・・・?>『回路』)

(評価:★4)

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