[コメント] そして父になる(2013/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
野々宮良多(福山雅治)と妻みどり(尾野真千子)の心のすれ違いは、本人たちの個人的な価値観の相違というより、言わば、身分の違う結婚という構図で描かれており、互いに子の取り違えに巻き込まれた斎木家との育児方針の違いもまた、「エリートは家庭より仕事」という、身分による意識の差、格差の問題へと置き換えられてしまう。つまり、社会的な背景が前面に出張ってくる分、彼らそれぞれの、一個の人間としての価値観を丸裸でぶつけ合うような生々しい事態が生じないという不完全燃焼感。第一、社会的な現実としては、収入の乏しい家庭だからこそ稼ぐのに忙しくて子供に構っていられないパターンも多いはずなのだが。
野々宮家で育った慶多(二宮慶多)がお受験で通った学校へ入学式に行くシーンでは、自宅で正装した慶多を見て、みどりの母(樹木希林)が「王子さまみたい〜」と喜んでみせるが、そこへノコノコ現われた斎木雄大(リリー・フランキー)が、その台詞を聞いていたかのように「王子さまみたい」と褒める。つまり、取り替え子という事態に巻き込まれた人々の中で、良多と慶多だけが、「王子さまみたい」だと呼ばれるような距離感に置かれている。なんだか姑息な映画的トリックと思えるのだが。みどりは斎木家の妻ゆかり(真木よう子)と楽しく電話し合う仲になり、夫に反撥するように。後に斎木家へ「交換」された慶多も、あちらの家庭に馴染んでしまったようで、良多の価値観を肯定できるような存在は、誰もいなくなる。
そうして物語は、予め用意されていたかのような結論へと至る。「一緒にいる時間よりも質」だと言う良多に対する、雄大の「子供にとっては時間だよ」の全面勝利。良多は、「質」を言いながらもその「質」に工夫したり努力している様子は全然見られないし、「僕が何とかする」と言いながらいつの間にか子の交換を決めてしまうし、家出した琉晴(黄升げん)のことを「何とかします」と、一緒に遊ぶことで「質」を高める努力も、これまで斎木家で積み重ねられてきた「時間」を克服できない。法律や経済的な勝利という点では有能だが、私生活では「負け」を知る良多。子を両方とも引き取ると申し出た良多に雄大が言い放つ「負けを知らない人間は、人の気持ちが分からない」という台詞が、やはり完全勝利する。(このシーンでの、雄大の、半端な勢いで良多の顔を叩く動作は、「思わず手が出た」感じがよく出ている)
ラストシークェンス、琉晴を連れて斎木家を訪れた野々宮夫妻。部屋の奥に隠れて、逃げ出してしまう慶多。追った良多は、隔てられた路を、歩調を合わせて歩きながら、「出来損ないだったけど、パパだったんだよ」と、少ないながらも慶多と重ねてきた「時間」に訴える。が、ここでまたも、映画的なトリックが。このままどうなるんだろうと思えたこの二つの路は、その先で、一つにつながっていたのだ。つまり、予め用意された空間が既に、二人の心境の辿る「路」を準備していたということ。ここは、交わらない路を、二人で自然と示し合わせるように戻っていく、といった努力が見える画が欲しかった。
第一、お受験で入学した慶多の学校はどうなったのか。野々宮家と斎木家は距離が遠そうで、同じ学校に通えるとは思えない(仮に経済的には野々宮家が援助するとしても)。そのことについて慶多はどう感じているのか。ピアノは好きで習っていたのか、それとも父に褒めてもらうためだけに続けていたのか。尤も、学校がウヤムヤになったのは、冒頭の面接シーンで慶多が、ピクニックで父に凧揚げをしてもらった、とても上手だった、と、「塾の先生がそう言ってた」という嘘をついていたこと、つまりは斎木家で本当にしているような親子関係があったかのように装っていた、という虚構性から、学校など幻だったのだといったスタンスをとったとも、考えられはするのだが。
琉晴の関西弁は、恰も『捜索者』でインディアンに浚われた娘が話すインディアンの言葉のような、主人公側から聞くと不快なノイズを発する。『奇跡』のまえだまえだ兄弟の関西弁のように素朴な子供らしさとして響いてもよさそうなそれが、洗練されたマンションに飛び込んできた羽虫のような邪魔物として感じられる、その演出効果は一応認められるが、東京人が抱きがちな関西弁のステロタイプなイメージをそのまま利用しているような厭味も感じずにはいられない。単純に、育ちの違いによる言葉遣いの違いとした方が適切だっただろう。それなら、琉晴の言葉遣いを良多が(箸の持ち方のように)矯正しようとするシーンが入れられたし、そのことで、「親子」の会話に緊張感をもたらすこともできたはず。
この映画の最後は、斎木家のボロい電器屋兼自宅に皆が入っていくカットになるのだが、「家族」が帰っていくのはこういう家だよね、雄大が、「琉晴の言うように、ホテルみたい」と言う高層マンションのような、よそよそしい場所じゃないよね、という結論を、静かに、だが他の観点なり感想なりを持つ余地は残さずに押しつけてくる、この、閉じた感じ。だが、斎木家のオヤジもまた彼なりのダメさを発散していたのに、そこは看過されるという偽善。斎木家の、薄汚く狭い家や、琉晴の頭悪そうな言動、カミカミしたストロー、といった要素にこちらが抱いた嫌悪感は未整理なまま、「受け入れましょうよ、これを」と、穏やかに、だが一方的に諭してくるこの感じ。厭ですね。
そして、良多の仕事先に唐突に現われる、老師然とした井浦新の、蝉がよそから飛んでくるのは簡単だが、そこで育って羽ばたくまでには時間がかかる、という台詞。その時間に驚く良多に「長いですか?」と逆に驚いてみせる台詞の超然とした調子に、絶対的な真理のような位置を安易に与えてしまう姿勢。蝉も新も、野々宮家と斎木家で展開してきた物語とまったく無関係なのだが、むしろ無関係であるが故に、超越的な場所から、物事を成就させるのは「時間」だということを自然の摂理として説く役割を持たせてしまう。これもまた映画的トリック、錯覚へと誘導する詐欺であり、世界の現実とは何の関わりもない。
雄大が、電器屋という職業柄、子供のオモチャをハンダゴテを操って修理してしまう手際がそのまま、父としての子との密着度とイコールのように描かれているのもまた、映画的トリック。この雄大は、遊技場で子供たちと一緒に遊ぶ姿や、妻からも「子供がもう一人いる」と言われるような男だが、彼が、安い電球をチビチビ売ったりしながら町に馴染んでいる光景と、良多の仕事場の、洗練されてはいるしスケールも大きいが、どこか冷たく空々しい雰囲気。是枝は、子供にとってどちらがより楽しいか、という視点で全てを裁いてしまっているように感じるのだが、野々宮家に育った慶多が、あまりにも簡単に斎木家に馴染んでしまっているのはどうなのか。
野々宮家の文化で育った慶多が、あんな小汚いオヤジに風呂場で口からお湯を顔にピュッと吹きかけられて喜ぶ姿を見ると、是枝の中に、子供とはこういうものだというイメージがあって、それを絶対的な基準にしてしまっている観がある。良多よりみどりの方が圧倒的に長い時間を慶多と過ごしてきたから、みどりの実家の「身分」に近い斎木家に馴染んだのだという社会階層論的な話になってしまっているようにも見えるが、それならそれで、母みどりとずっと一緒に過ごしてきた「時間」を慶多はどう思っているのか、母を懐かしんで帰りたがったりしないのか。
それに、両家の子供たちが一緒に遊ぶのを眺めながらゆかりが呟いた「子供は(互いに馴染むのが)早いわねー」という台詞は、慶多が斎木家に馴染むのが「早い」のは、斎木家に子供が多いのが理由なのかとも推察させられるのだが、そうなると、引き取った琉晴をかわいいと思い始めている自分に罪悪感を覚えるみどり、それでいて琉晴から「家に帰りたい」と言われてしまうみどりは、もう子が産めない体であるらしいことを考え合わせたら、多くの葛藤を抱えているはずなのだが、概ね良多の視点で描かれる本作は、それを拾い上げることもなく、言わば良多の共犯者として、何となく看過することを観客に強いている。そしてそのまま、良多が、二つの路の合わさる所で慶多と合流できたことで、曖昧な安心をするよう誘導してくるのだ。
全体的に、ここはこれを当然描くべきだし避けては通れないだろうというところを、悉くスルーしている印象がある。それは例えば、病院から取り替え子の疑いを告げられた後、ケーキで慶多の入学祝をする野々宮夫妻の心境がまるで描かれず、普通にお祝いして終わっているところから既に違和感が生じていたのだが。
更に、致命的なのは、良多が父から言われ、自らも口にする、「子供たちは血縁上の両親にどんどん似てくる」という切迫感を痛感させるような、子供たちと両親との身体的な類似というものを、きちんと置いていないこと。夫婦の顔はそれぞれ違うにしても、両親のどちらかに似ている、といったことでもいい。第一、こうした事態になったら普通、親は、血縁上の子と育ての子の、自分たちとの身体的、性格的な類似や違いに敏感になるはずなのに、そこをまったく描かない。まぁ、『奇跡』で前田兄弟の両親にオダギリジョーと大塚寧々を持ってくるところからして、親子の類似性などフィクションの中では無頓着でいいという意識なのだろうけど。
いや、良多が息子にもっと競争心を求めていたこと、そして妻は、その不満のせいで夫が、取り替え子を知ったときに「やっぱりか」などと口にしたことを詰っていたことで、良多なりの仕方で、子と自分の類似性を意識していたことが匂わされてはいる。だが、良多が息子のその性格を、お受験面接シーンでは、妻に似ておっとりした性格、などと評していたことからしても、単純に子が、一個人としての自分に似ているかどうかの問題ではなく、非エリートというカテゴリーに属する者の血は弱い、とでもいった社会階層の問題へと、微妙にずらされている。つまり、単純に子が自分に似ているかという問題が、子が社会的に成功するかという問題と混ぜ合わさってしまい、良多が固執しているのが血縁なのか社会的成功なのかが曖昧。その曖昧さを更に増すように、良多が琉晴に、自分のような競争心を求めたり、そうした性格を探したりする様子はまったく見られないし、琉晴にピアノを習わせてみたりもしない。何を求めて子を交換したのか判然としないし、良多の「判然としない心境」を描いたというよりは、描くべきものを定める軸そのものが判然としていない感じがある。
結局、監督が幼い娘との体験で受けたショックが贖罪意識のようなものを生み、その「時間」を埋め合わせるようにして撮ってしまったが故に、描かれるべきものが何なのかを、見え難くしてしまったのではないか。それにしても、映画で“ゴルトベルク変奏曲”を聞くのはこれで何度目だろう。最初のアリアの変奏曲が展開した後、最後にまた最初のアリアに戻るこの曲、大抵は「回帰」とか「反復」という含みを持たせて挿入されるのだが、本作の場合、色々と紆余曲折を経た後に帰るべき所は、端から、取り替え子発覚以前の暮らし、積み重ねた「時間」しかない。つまり、この曲が鳴った時点で結論は既に出てしまっているのだ。これほど難しい主題を扱いながら、これほどまでに観客に委ねる余地を残さない映画というのも珍しい。その上、取り替え子という主題にとって決定的な「血縁」を深めず(良多は、妻とのあいだに子を作ることがもう叶わない、という設定にもかかわらず)、もう一方の要素である「時間」に完全に従属させる。観客に対しては、時にはてきとうにあしらうようなことをしてくれてもいい。だが、自ら選んだ主題に対してくらいは真摯であってほしい。
尾野と真木は、役が逆の方が妥当だっただろう。福山と真木は顔が比較的似ているので、二人に似た子役(もちろん琉晴役)を探しやすい。それに、琉晴が話す関西弁は尾野も、出身者として自然に話せるので、育ての母役として適格。
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