[コメント] かぐや姫の物語(2013/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この映画を突きつけられた私を見舞う巨大な感動、と云っても、それはもはや「感動」という名詞を宛てがうことが適当であるかも甚だ怪しい感情なのだが、その正体を無謀にも一点に集約しようと試みるならば「こんなもの見たことがない!」という生理的な反応であるに違いない。おそらくそのときの私は一八九五年一二月二八日にパリのグラン・カフェに集った人々の体験に最も接近したのだと心底から思う。画が「動く」というただそれだけのことにどうしてこうも惹きつけられ、狂わされてしまうのか。
「映画」の始原にして最大の謎であるそれについて、私が答えられようはずもない。『かぐや姫の物語』の造り主であるはずの高畑勲にしてもその解を確信的に手にしているのかはきわめて疑わしいが、かぐや姫の幼少時代が「竹取物語」よりも拡大された所以が彼女を動的なヒロインとして基礎づけるためであったことは明らかだろう。都で「やんごとなき姫君」であることを強いられる彼女の哀しみとは、野山を離れて捨丸たちと別れなければならなかったこと以上に、動きを奪われたことにある。それが証拠に、都に移り住んで間もなく、姫が美しい着物と広大な屋敷に喜んで廊を駆け回るシーンは全篇で最も幸福な瞬間のひとつである。
動きを奪われること。それはかぐや姫にとっての不幸であるとともに、彼女のヒロインとしての魅力を低減させずにはおれない。さらに「引眉」「お歯黒」を醜いと見做すだろう現代人の美醜の基準を絡めることで「ヒロイン殺し」は補強される。桜並木の下でくるくる舞ってみせるのを最後に、彼女自身もついに観念してしまうようだ。すなわち、動かないこと、ヒロインとしての死を受け容れる。そこから彼女を生還・回復させるためには、想い人であった捨丸ととともに「空を飛ぶ」という突飛かつ極端なアクションが存分に描かれなければならない。
とりわけ姫の心理にかけて「竹取物語」に現代的な解釈を施したと云える『かぐや姫の物語』は、同時に(改めて口にするのも馬鹿らしいほど当たり前のことだが)映画的=動くことを基点とした解釈で原作を読み直し、視覚化している。しかし、それは、小手先の理屈にすぎない。私を襲った未曾有の動揺を何ひとつ解き明かしてはいない。
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