[コメント] 仁義の墓場(1975/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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僕は基本的にこの手の「何でそんなことしちゃうの系悲劇映画」が大っ嫌いです。結末に控える悲劇より、それ以前の選択の愚かさが気になって仕方がなくなるからです。要は「そんな馬鹿な選択をする奴に同情する余地はない!」ってことでしょうか。それがこの映画だけは何故だか乗れたんですよね。しかも同情どころか共感できちゃったんです。主人公石川力夫には、正しい選択など何一つ無かったっていうのに。
恐らく僕には石川力夫の行動が、注目を集めたい、人から評価されたいと願う、反抗期の幼児の行動にダブって見えていたんだと思います。そしてみんながとうに捨ててきたその幼児性を奔放に振り回して自滅していく石川に対し、社会においてまだ無責任でいたいと心のどこかで願っている自分自身を重ね合わせてしまったんだと思います。
だからこそ渡哲也という配役が重要だったんです。というのもこの人、どんなに強面にしてもどこか駄々っ子みたいに見えるんですよね。何だかものスゴい愛嬌があるんです。恐らくそのポイントは「頬っぺた」。彼のプックリとふくれた頬っぺた、あれって基本的に乳幼児の持つ特徴なんです。まるで赤ちゃんみたいな頬っぺたです。自分が通り過ぎた場所から未だ抜け出せずにいることへの悲哀と羨望。ちょっとバカバカしい話なんですが、幼児顔の彼が持つ攻撃的な愛嬌にまるで幼い自分を見るような思いに捕われ、ついそんな共鳴をしてしまったんだと思います。
後半、自らが薬でボロボロになりながらも妻の吐血だけは拭いてあげようとする石川の姿は、まるで役に立たないなりに母を看病しようとする幼児の姿のように見えてきます。こんな狂犬のような男が「いじらしく」「健気に」見えてしまったというそのことが、正にその共鳴の証なんでしょう。そしてそう考えると、墓場の襲撃シーンで飛ぶ赤い風船は、繋ぎ止める糸が切れてしまった石川の幼児性を象徴しているように思えました。
彼の墓標に刻まれた「仁義」の二文字。それは幼児が幼児なりに懸命に理解した、「彼なりの仁義」の刻印なんでしょう。
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