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[コメント] GODZILLA ゴジラ(2014/米)

名作の威を借る偽者を安易に許容する「専科の驕り」。ふざけるな、と怒れる健全な感性をやはり大切にしたい。
水那岐

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ゴジラ映画に過度の期待を持ち込むことは平成を迎えてからやめている。だが、それにしても今度の作品に甘い評価をかけて労う気持ちは自分はもちあわせていない。

べつにゴジラ映画だからではないのだ。ギャレス・エドワーズの映画力の低さはかなり問題だ。親子愛を判りやすいモチーフとして提示するにしても、一緒のところを引き裂かれひたすらに互いを捜しまわった親子が、再会とともにハグしあい号泣する、というシークェンスのリフレインは何度繰り返したら気がすむのだろう。偶然の積み重ねはしらけた感想しか生まない。

それだけでなくここまで退屈な怪獣映画はない、と思えるのは怪獣の意をくむ個人(どうやら渡辺謙はゴジラをリスペクトしている、という設定には呆れ返ったが)がいないための怪獣評価の見えなさに起因する。べつに美少女とアイテムで交信しろ、といっているのではない。一般市民も核の落とし子としてのゴジラの心情をスカタン推理ながら繰り返し代弁する。陳腐であっても「ゴジラの怒り」を解説する市民の描写は、物語の緊迫とドラマの主役をしぼる有効なサムシングとなっていたはずだ。怪獣の激情は画面に叩きつけられるように描かれ、あたかも不動明王像のようにはかり知れない恐怖と威厳を人に与える。それは怪獣の異物感を損なわない有効なアイディアであり、神と人を隔てる冷厳な演出である。それがないせいでゴジラは「単なる他人」になってしまった。

その上で言いたいことはゴジラの核の落とし子描写の欠落であり、それゆえのキャラクター欠落であるばかりでなく、第五福竜丸を代表とする核のドス黒い歴史の隠蔽であるが、これらは先行コメンテーター諸氏の仕事に詳しいのでここではふれない。だが、核をエナジー源とする怪獣ムートゥーの原子力中和クリーン能力には言葉を失った。これがアメリカの「良心」だ。エドワーズにはジョン・ウェインの死因すら判っていないのだろう。かくして最終兵器核爆弾はサスペンスを盛り上げる小道具に片付けられる。

でぶっちょのねぼすけ。気は優しくて力持ち。そんな存在が今回のゴジラである以上、ゴジラをエドワーズに託したのは間違いである。『パシフィック・リム』という佳作が欧米人の限界である、という言説を自分が唱える気持ちがないのは、いうまでもなくギレルモ・デル・トロはエドワーズを遙かに凌駕する才人だからだ。朗らかで健康なアメリカン、エドワーズには無理な仕事に過ぎたことを考えると、もっと才気溢れる監督はいたはずだろう。

なにやらラドンやキングギドラを相手にする後継作が予定されているというが、そんな理由では期待はできない。連綿とシリーズが続くことのみで評価されるなら、それはローランド・エメリッヒという男よりは「ベターな」才能を見い出した日本人の「専科の驕り」だろう。怪獣は流行おくれで、それを再び盛り上げる才能の発掘に血道をあげる日本人のゆがんだプライドは、たとえばウルトラ怪獣の美少女コスプレ姿を「公認」する円谷プロの迷走とかさなるものを想起させる。

日本人はもっと偏狭さを身につけ、ベストならざる「ベター」に否定の二文字を突きつけてもてもいいのではないか。ゴジラは核と不可分であり、その日本人の認識は単なる「ベター」と決別する上での最重要事項だ。そして人類とは共闘することもあったが明確にその行動ベクトルが重なったことがない、というゴジラのパーソナリティは堅持されるべきだ。それこそが凡百の怪獣と差別化される所以でもあるのだから。

(評価:★2)

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