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[コメント] 百円の恋(2014/日)

日本人の共同幻想が消失し、コミュニティーが分散化された「今」という時代のハングリーとアングリー。醜くたるんだ体と焦点定まらぬ目をした仏頂面の女が、無自覚にではあるが自らの存在の「不愉快」さに挑戦するさまが安藤サクラによって文字通り体現される。
ぽんしゅう

「HUNGRY/ANGRY」。ボクシングジムの奥の壁には、書きなぐったような文字でそう掲げられている。その文字は2度、画面に登場する。どちらもジムを遠景で外からとらえた、狩野の練習を一子が覗き見るシーンと一子自身が練習に没頭するシーン。窓の奥のリングのさらに奥に見えた。その文字は、か細く、ゆがんで、弱々しい。

狩野(新井浩文)、38歳。一子は32歳。二人がまだ子供だったとき、日本人の共同幻想は消失した。彼らが成長するのと時を同じくして、大衆の気分を包括していた歌謡曲が消滅しJポップとよばれる無数の気分が乱立しはじめ、プロ野球の全国中継がゴールデンタイムから姿を消し、読売巨人軍は関東のいち地方球団となった。

それ以前のハングリーとアングリーは意味通り機能し、「飢え」と「怒り」は上位を勝ち取るための威力と持続力を支える原動力だった。社会のヒエラルキーは三角形を保ち、底辺から見上げれば頂点がみえた時代だ。

今、日本社会の価値は細かく分散され、コミュニティーは小さく歪んだ三角形として点在している。さらに、その三角形が置かれた上下の位置はバラバラで、上位はさらに上へ、下位はさらに下へと向かい、格差は拡大し続け底辺から頂点の姿はみえなくなっている。

自分の立ち位置が見えない一子にとってのハングリーとは、社会と関わりを持つなかで外圧によって気づかされた「飢え」であり、アングリーは目標としての頂点や、そのための上昇といった戦略を持たない、その場から半歩だけ立ち位置を変えたいという「不愉快」さに根差した無自覚な願望として芽生える。

この点において、本作は「ロッキー」や「レイジング・ブル」とはまったく異なる位相にあり、まぎれもなく現代の日本社会の状況に根差した青春ボクシング映画なのだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)DSCH[*] [*] jollyjoker[*] サイモン64[*] けにろん[*] 寒山拾得[*]

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