[コメント] 子供はわかってあげない(2020/日)
それは、新たな可能性を、理屈ではなく、事実として実感したときの驚きと喜びだ。そんな美波の感動が、まさに実感として私にも伝わってきた。上白石萌歌のたたずまいが醸し出すどこか漫画的なキャラクターと、ふと気づくと“視線”を感じる不思議なカメラワークの成果だと思う。
萌歌ちゃんの丸い顔に、丸い目に、丸い鼻。そして立ち姿には“ドラえもん”を思わせる愛嬌がある。そんな彼女とヌーボーと力の抜けた豊川悦司(元お父さん)のツーショットからは、絵に描いたような“ほのぼの感”が漂う。二人の間に恨みつらみや、深刻な葛藤など一切ない。あるのは、好奇心にかられて珍しい人種を観察する女子高生と、逃げも隠れも言い訳もしない、かつて父親だったことのある男という、今の自分をフツーに受け入れ肯定している二人が作りだす「キラキラ」と「飄々」だ。
もうひとつ、観ている間ずっと気になったのは画面から“視線”が伝わってくることだ。例えば冒頭のアニメから美波一家のリビングへの主客逆転。泳者主観の水中カメラ。教師の訓示中に虚空を見上げる美波。屋上から一階まで下り、そして駆け上るロングテイク。プールのこっち側からあっち側。応援スタンドから見下ろすスタート台の美波、等々。手持ち、ステディカム、ドローンを駆使するカメラワークは、ときに登場人物の、ときに我々の、あるいは誰かの“視線”となって「映画の景色」を誘導し不思議な雰囲気を漂わせる。この視線の錯綜が、映画への没入の(良い意味での)妨げとなって、私の冷静さを担保したように感じた。
この映画の不思議な雰囲気に浸りながら相米慎二の初期の青春映画を思い出していた。萌歌ちゃんの丸顔が、往年の薬師丸ひろ子を連想させただけかもしれないが。
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