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[コメント] 福田村事件(2023/日)

コロナ下のわれわれそのもの。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







未体験の恐怖の中でとびかうFAKEに踊らされてターゲットを叩く。はなから悪意や何らかの意図でFAKEを流していた人は別にして、「善良」や「正義」からくる憎しみや怒りに拳をふりまわす。コロナの頃のSNSでの日常風景を思い出す。人間は100年前から何も変わってない、まったく同じ、それこそが人間の本質だ、というのがこの作品のテーマだと思う。TM(H19.1加入)さんの「善良な住民がなぜ虐殺に関与してしまうのか」を描いたものだという指摘や、jollyjokerさんの「あなたはそれを実際に見たのですか?」がキーワードだというご指摘に同感するのはそういうわけです。

私は監督が特に言いたかったことは「踊らされて」という一見受動態の現象が、実は「自分が選んでいる(むしろ積極的に)」能動的な行為で、そのことに無自覚か、あるいは、そのことを自覚しているけど受動的な振る舞いをとることによって責任を逃れることを担保してのことではないか、ということのように感じた。なぜそう思うかは、作品の前半で登場人物たちの「日頃の」その人のものの考え方や、不満・鬱憤、村(ムラ)での立場や属性が詳しく描かれているからだ。それはデモクラシーや水平運動のようなイデオロギーだけでなく、夫の不能や不在、うまずめの嫁に対する苛立ちなど私的なこともある。

自分をふがいなく思う気持ち、そう思わせている周囲。自分をないがしろにする世間、そういった日頃自分を脅かす存在があって、それが現実に現れた恐怖に親和する。その現前の恐怖に自分の恐怖を仮託する。そしてそういった本人の立ち位置から見えるアングル、最も納得できる見方、最も自分に都合のよい見立てで、「自分が」判断をくだしているのだ、ということをこそ描きたかったと思うのだ。たとえその振り上げた拳の理由が、「御国のために」「組織のために」「みんながそう言っているから」だったとしても、それを判断しているのは自分であって、そこにわれわれは無自覚ではなかったろうか。拳をふりあげる人、それはとどまる人。同じような考えや立場の人であっても、実際にとる行動には違いがある。人は物事を自分の見たいように見ることから免れないと思う。だとしたら私はどこから見ている人なのか、私は何者なのか、その拳に私の名前は書かれているか。そのことにもっと自覚を持つべきだろう、そのことを言いたかった作品だと思った。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)寒山拾得[*] DSCH けにろん[*] jollyjoker[*] ぽんしゅう[*] クワドラAS[*]

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