コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] フルメタル・ジャケット(1987/米=英)

狂ってるようで実は正常。リアルなようで実はフェイク。ジョーカーという名の道化が語る物語には裏がある。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画、キューブリックらしくない。

狂った微笑みデブの場面で「え?なんでまた「シャイニング」なの?」と思ったのが最初の疑問。そして後半の狙撃シーンで「え?なにこのペキンパーみたいなスローモーションは?それになんか血のり多すぎじゃない?」と続き、最後は「え?なにこの唐突なナレーションとエンディングは?発狂したわけじゃあるまいし、いくらなんでもそんな急に人は変わらないだろ」と完璧主義のキューブリックにしては不自然に思える作風に違和感を感じていた。

シャイニングとペキンパーは後述するとして、この映画の最大の疑問は最後のナレーションだと思う。一人の若者が一線を越えたために兵士へと変貌するのはわかるが、さっき少女を殺したばかりで、その数時間後には笑顔でミッキーを歌うのは無理がある。微笑みデブでさえ狂うまでに何日もかかったというのに。そこで私はある仮説を立ててみた。それは主人公がウソをついていると。言い方を変えよう。完全なる兵士のふりをしてると。だとしたら何のために?

それでは主人公について分析してみたい。まずはジョーカーというあだ名からして既にウソっぽい。そしてこの男はヘルメットにKILLと書き、胸にはピースバッジをつけるという二面性あるキャラクターである。次に劇中の彼の言動を振り返ってみよう。ジョーカーはキャンプの鬼教官に対し、望みどおりの受け答えをし班長に抜擢される。戦場ではピースバッジを咎める大佐に対し、同じように相手の望む受け答えをして事なきを得ていた。つまり彼は相手に合わせて自分を変化させ、相手の望む形で対応することができる人物なのだ。それゆえ彼は、カメラを盗んだ少年にはカンフーで応じ、ケンカ腰の兵士にはケンカ腰で対応している。しかしそれは彼にとって単なるポーズにすぎない。トランプで言えばジョーカーとは数字というグループには入れない道化であり、同時にどの数字にもなれるカードである。つまり彼は仲間ではないものに仲間のふりができるカメレオンのような存在なのだ。そういうキャラクターであるという前提でラストのナレーションを振り返ってみた。

「今日一日の業績で、我々は十分歴史に名を残した。香水川まで進んだらそこで朝を待つ。頭に浮かぶのは硬い乳首の白日夢。潮吹きメリーが主催する生還祝いの妄想大乱交。五体満足の幸福感に浸り除隊ももうすぐ。わたしはクソ地獄にいる・・・が、こうして生きている。もう恐れはしない」

まず最初の部分、「今日の業績で歴史に名を残した」とあるが、彼らが倒した敵はスナイパーの少女を入れてもたったの三人である。それが歴史に名を残す業績?しかもスナイパーがいたのは道に迷った先という戦略的にまったく意味のない場所である。この部分ですでに真実を語ってるとは言い難く、以下につづく言葉もどこか作為的であり、ついさっき少女を情けで撃ち殺した人物が語るにしては、いささか唐突すぎて違和感を感じてしまう。そこで彼のカメレオンのような二面性を考慮すると、ラストの行進の場面とナレーションは彼が仲間に合わせて自分を変化させている、という仮説が成立する。もしそれが正しいとすれば、いったい彼は何のためにそんなことをしたのだろうか?

それは先ほどの少女の場面にさかのぼる。ジョーカーは瀕死の少女を苦しみから解放してあげたかった。しかし他の兵士たちは大切な仲間を殺した相手に安楽死など許さない。さて、どうする?その時、彼の脳裏に一つのジョークが浮かんできた。

「5人の黒人が女を襲っていたらどうやって助ける?」

この時、少女を囲む兵士の数はなんと5人!まったく同じ状況というあざとさである。そして主人公はジョークの続きを思い出す。「バスケットボールを投げればいいのさ」そう、少女を助けに割って入るのではなく、彼らの喜ぶものを与えてやればいいのだと気づく。彼らの喜ぶものとは、「仲間を殺した狙撃兵に苦痛を」であって「苦しみからの解放」ではない。そこでジョーカーは「仲間を殺された兵士が憎らしい女狙撃兵に復讐した」という役を演じることで他の兵士を欺きつつ、少女を苦しみから救ったのである。ではなぜ彼は少女を助けたかったのだろうか。それは前半の微笑みデブにさかのぼる。

ここで微笑みデブと少女との共通点について触れてみたい。この二人に共通するのは「意外性」である。微笑みデブと呼ばれたレナードは訓練キャンプにおいてお荷物だった。そのトロさと鈍さに訓練兵たちみんなに嫌われ蔑まれていた。ところがそんな彼が主人公を脅かす存在になるという意外性。一方、ベトナムで娼婦と遊んでいた主人公は戦場で狙撃兵という脅威にさらされる。狙撃兵の正体はシコシコナメナメの対象として蔑んでいた存在と同等の少女だったという意外性。(ちなみに「shoot me」という片言英語が娼婦の片言英語に重なる対比)こうしてデブと少女、ともに自分が蔑んでいた対象に狙われた主人公は、人を蔑むような行為こそが人を狂わせるのだと悟る。そして結果的にレナードを救えなかったという苦い体験が、後半で少女を救いたいと思う原動力になっているのである。そして少女を撃ち殺したことで彼は戦争という間違ったシステムの告発という真のジャーナリズムに目覚めたのである。

ではここで再びナレーションに戻ろう。少女を救うためフルメタル兵士のふりをしたジョーカーはあることに気づく。新聞記者として自分の書いた記事が上司に採用されなかった理由に。事実をありのままに書いた記事は検閲ではねつけられ、伝えたいことが伝わらなかった。ならばどうする。バスケットボールを投げればいいのである。つまり上司や読者が喜ぶ内容に書き換えればいいのだ。表向きは勇ましい兵士の記事をでっち上げ、その実態は兵士の残虐性を告発する内容の記事を書けばいいのである。そしてこの二面性を実行したのがラストのナレーションのでっちあげだったのだ。この映画は彼の書いた記事が映画化されたものと考えれば、主人公が勇ましい兵士に変貌する物語と見せかけて、女子供でも撃ち殺す戦争の実態を告発したと考えられる。ラストの陽気に歌を歌う彼の姿はポーズであり、この先も彼は勇ましい兵士のふりをして勇ましい記事を書くことを暗示している。スナイパーの少女を情け容赦なく撃ち殺すたくましい兵士の記事を。ヘリコプターから女子供の見境もなく殺しまくる勇敢な兵士を称える記事を。エンディングの「黒く塗れ」は、真実や正論をありのままに声高に叫んでみても誰も聞く耳を持たない、ならば正論を相手がよろこぶ色に塗り替えればいい、という意味に解釈した。

もし仮にジョーカーがラストで本物のフルメタル兵士に変貌を遂げていたのなら、彼は自分のライフルが放つフルメタル弾で人を殺していなければならないはず。だが女スナイパーと対峙した彼のライフルは作動せず、彼は一発も撃っていない。そして少女を撃ったのも拳銃であって、それはフルメタル弾ではない。それは彼がフルメタル兵士としてではなく、一人の人間として少女を撃ったということを証明している。さらにラストで行進する彼の姿をよく見てみると、今にも銃を撃ちそうに構えてる兵士たちの中で、彼だけが海兵隊らしからぬ銃の持ち方をしてるのに気づく。彼の銃は下を向いており左手はまるで銃を撃つことを抑えてるように見えるではないか。そう、彼は勇ましい兵士にまじり勇ましい兵士のふりをしているだけにすぎないのだ。彼はもう恐れはしない。なにを?軍隊を。そして戦争を。彼はもう記者として何者とも戦えるだけの武器を手に入れたのだから。どんな記事でも書けるペンという名のライフルを、そして言葉という銃弾を。タイトルのフルメタルジャケットとは、兵士は「銃弾」で人を撃ち、ジャーナリストは「言葉」という銃弾で人の心を打つ、という二重の意味に解釈した。この映画は「一人の若者が銃弾で武装した完全なる兵士に変貌する物語」に見せかけて、その実態は「一人の若者が言葉で武装した完全なるジャーナリストへと成長する物語」であり、「ペンは剣よりも強し」という物語なのだ。

では最後にこの映画の構成をまとめてみたい。まずキューブリックは「若者が戦場でジャーナリストになる物語」を映画にしたかった。しかし地味そうな題材は観客に受けそうにない。さてどうする。バスケットボールを投げればいいのだ。そこで彼は「新聞記者」の話を「見せかけの兵士」の話に作り変えた。さらに兵士の物語が表面的なフェイクである事を決定的にしたかった彼は、飛行機嫌いを理由にロンドンにベトナムという巨大なフェイクを作り上げたのであった。しかしその二面性に観客が気がついてくれるか心配になったキューブリックは、映画を二部構成にすることで作品の持つ二面性に気づいてもらえると考えた。そして前半を「言葉」という銃弾で埋め尽くし、後半は「銃弾」という言葉で画面を埋め尽くすことで「言葉=銃弾」というヒントを観客に提示したのであった。

さて、今度はフェイクの構成を強調しすぎたと思った彼は、兵士の物語に観客の意識を向けさせたいと考えた。そこでまたバスケットボールの登場だ。前半の最後で微笑みデブを「シャイニング」っぽくすれば、狂気を期待する観客も満足だろう。よし、そうしよう、と。後半はペキンパーのようにスローモーションを使い血のりも増やそう。よし、これで暴力と血が大好きな観客の目を眩ませるだろう、と考えたのだ。こうしてキューブリックは「シャイニング」っぽい場面とペキンパーっぽい場面をわざと挿入し誇張することで我々の目を欺こうとしたのである。しかし彼の誤算は、あまりに完成度が高すぎたため「一人の若者が兵士へと変貌する物語」として映画が成立してしまったこと。このため私を含むどれだけ多くの観客が「よくわからないけど、これが戦場のリアルだよな、うん、さすがキューブリック!」と納得してしまったことか・・・。観客に騙されていることさえ気づかせないキューブリックこそ真のジョーカー。キューブリックにとっての「銃弾」が「映画」であるなら、一発必中の名スナイパーとは彼のことだ。(2011.12.2)

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (7 人)山ちゃん[*] Orpheus 煽尼采 ジョー・チップ[*] アブサン 3819695[*] 赤い戦車[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。