[コメント] 八つ墓村(1977/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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都会からはるか離れた辺鄙な村でさえ、電気もテレビも当たり前となって久しい70年代。それでも「崇り」の存在を素朴に信じる村民性が山奥に行けば残っていた。ここら辺のリアリティが実感として分からないと、この映画は厳しいと思う。
野村芳太郎の演出もそこを狙っている。今(70年代半ば)ならまだ作れると踏んでいる節があって、説明調の台詞は最小限に抑えられている。
例えば、金田一(渥美清)が主人公の近親者の身許を洗っていて、途中で調査を放棄したことを、後に報告する際、何の理由も示さずあっさり「調べるのを止めました」とだけ言ってしまう。現代的な感覚からすれば、現実社会では調べても調べきれないことはあるにしても、フィクションの世界であれば、微細まで謎を解決してこその映画だろ、と言いたくなる。だが、「すべてを調べつくしてはいけない」のだ。こういう感覚は、「ああ、分かるなあ」としか言い様がない。
だから時代感覚のリアリティが失われてしまうと、この映画は脆いと思う。それは他の場面でも現れていて、この映画では、「人一人が死ぬ」ということの重みがほとんどない。目の前で人が死んでも、登場人物の何の感慨も示されずに話が展開していく。渥美金田一など、せっかく被害者の死体を見つけたのに、「(警察の)現場検証がありますから」とか言って、また池に沈めてしまう。私は一瞬、この種の「人命軽視サスペンス」に対するパロディかと思って、吹き出してしまいました。だが、確かに当時、連続殺人事件を題材にした推理サスペンスものなどでは、人の死の扱いはこの程度のものだったように記憶している。
そんな中でも、多治見要蔵(山崎努)の殺戮シーンは際立っていた。桜の花の満開の下、邪鬼のごとき形相でこちらに向かって疾走してくる山崎努は、村人を見つけては、日本刀で切り殺し、刺し殺し、あるいは猟銃で撃ち殺す。これを延々と続けている間、なぜか頭に懐中電灯らしきものを二本、鬼の角のように括りつけている。これが怖い。この懐中電灯は夢に出てきそうで怖い。
現代社会は、「都市伝説」的なフォークロアの集積みたいなものしか持ち得ていない。昔らか続く「ムラ社会」は名実ともに解体されてしまった。もはやこういう映画が作られることはないだろう・・・とまで悲観する必要はないかな、ウン(一人合点)。
80/100(2004/06/27見)
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