[コメント] アニー・ホール(1977/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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とはいえ、男と女が出会うあたりでは、「視線の越境」は起きません。 私たち観客は、彼らが恋に落ちるのを遠く離れたところから観察できる好位置にいます。 彼らの仲が深まるのと反比例するかのように、 かすかな心の溝が二人の間に横たわりはじめます。 そのあたりから、「視線の越境」は頻繁に起こり始め、 私たち観客は、彼の問いかけに対し、共感したり、反発したり、身につまされたり… とにかく高みの見物ができなくなってしまうようです。 また、ウディ・アレンは、ニューヨークを闊歩する市民たちにも、「強制介入」します。 単なる背景でしかなかったエキストラは、 彼に呼び止められた次の瞬間には、彼の親しい友人となり、 耳を傾け、時に彼を諭したり、慰めたり、あるいは、彼を突き放します。 (彼も彼らを突き放すこともあるのですが。) これらは観客であるわれわれと、ニューヨーク市民がクロスオーバーする仕掛けであると思います。
「視線の越境」はまた、物語内の過去と現在を自由に行き来するツールでもあります。 過去の自分を現在の自分・恋人・友人と眺めては、 批判を下したり、懐かしがったり。 このとき「過去」はアレンたちと私たち観客の中間地点よりもこちらよりに投げ出されています。 まるで、私たちが批判される側であるかのように。 あるいは、懐かしがられる側であるかのように。 この映画ではジャンルをも「越境」して、 アニメで描かれる部分もあるくらい。
しかし、N.Y.からL.A.に場面展開したときには、 さきに挙げたような市民への「強制介入」は一切ありません。 親しみの持てる土地ではないからでしょう。 ユダヤ人嫌いの彼女の祖母を囲んだ食事会の場面では、 「彼女の祖母の視点から見たユダヤ系の自分」が諧謔的に挿入されます。 この場合の「視線の越境」は、 すでにこれまでのような親しさをもたらす装置ではなくなっています。
彼女との関係の修復が不可能になったとき、 「視線の越境」も「強制介入」も、まったく見られなくなります。 あれほど親しかった彼の語り、私たちに向けられていた彼の語りは、 彼自身の心の声として、ナレーションで語られるだけです。
物語の終わりは次のようなものです。 彼女と別れ、何年もたってから、偶然に再会するのですが、 私たちはもはや遠くから眺めているしかありません。
思い出となったこれまでのエピソードが、断片的に挿入されはじめたとき、不意に涙がじんわりとあふれてきました。
このとき私は、幸せだった過去を遠くから眺める、 冴えないコメディアンに同化していたからです。
なお、この映画のスタッフ・ロールに音楽は流れません。 沈黙のまま、静かに流れていく文字を追いかけていたら、 映画の始まりの部分、一番好きなシーンが ふと心に浮かんできました。
久しぶりにいい映画を観ました。 言葉は上滑りすることがあっても、 視線は嘘をつけない、改めてそう思います。
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