[コメント] ブラック・サンデー(1977/米)
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ボートと監視船、飛行船とヘリコというイレギュラーなチェイスも大変嬉しい。しかしその他のシーンのサスペンス演出があまりによいため、却って肌理の粗さが少々気になってしまう。また、飛行船がスタジアムに墜落せずに海上でダーツを炸裂させてしまうことはよいとしても、その画には不満を覚える。ここは嘘でも二二万本の水柱を噴き上げねばならなかったはずだ。それぐらいしなければこのラストシーンは、画面の水準においては映画のクライマックスであったと云ってもよい格納庫シーンとの対照になりえない。
だが、それを除いては私はこの映画をほとんど全的に肯定したいほどだ。たとえば、ロバート・ショウとその相棒スティーヴン・キーツ、マルト・ケラーの非米英人的アクセントで発音される英語台詞がどれほど作品世界を豊かにしているか。ブラック・セプテンバーの幹部(首領?)ベキム・フェーミュとショウらの銃撃戦シーン内には、逃走するフェーミュと道を横切る白いねこが完璧としか云いようがないタイミングで交錯する吃驚ものの俯瞰カットがあったりして、こうした細かなところにいたるまで演出家の仕事ぶりにはいっさい手抜きがないと感じさせる。
また、これはプロフェッショナリズムの激突の映画であるが、一方では「個人的な」テロルと「個人的な」テロル阻止を描いた映画でもある。ここで「個人的な」というのは、ブルース・ダーンの動機が最も顕著に示しているだろう。ショウを執拗な捜査に駆り立てるのも、キーツを殺されたことに対する個人的な復讐心に拠るところが大きい(ショウとキーツの関係性がまたいいんです)。そしてそもそも、ここではテロル自体が多分に個人的なものとして描かれている。組織の有形無形の支援なくしてはこれほどの規模のテロル実行はありえない。フェーミュがマイアミに現れるシーンはそれを示唆しているし、ファースト・シークェンスは明示していると云ってもよいだろう。しかしながら、映画はまるでケラーとダーンの「ふたりだけの」テロルであるかのように語り続ける。各々の個人的な目的のために、自分たちだけで二二万本ものライフル・ダーツを仕込んだのであろうふたり。ケラーとダーンは恋愛感情よりももっと強固で複雑な―「思想」などではもとよりない―何かで結ばれているように見える。だから、それは、どこか青春のようだ。目的のためには躊躇いなく人も殺せることがプロフェッショナリズムの発露であるならば、プロフェッショナリズムとは多分に「非情」のことであるだろう。その非情と青春の青さの按配が私を動揺させる。これは、魂の迷いなき暴走だ。青さなくしては暴走などしない。非情のプロフェッショナリズムに至ることなしに迷いは振り切れない。感動的な陰画としての青春映画だ。
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