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[コメント] 海の上のピアニスト(1998/伊)

一人の男の悲壮な人生を、あくまでノスタルジックに「ちょっとイイ話」に仕立て上げようとするトコロが、やっぱりトルナトーレ的。2.5点。
くたー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







原作は一人芝居であるそうな。確かにコレは彼が一人にならざるを得なかった話なので、一人称になるべき映画だと思います。つまりは他の世界の人々と接しながら、いかに主人公の周りの空気が異質なものだったかが、ちゃんと描かれていなければ意味のないお話。現実の世界では生きることが出来なかった、いわば彼の「一人芝居」人生の悲壮感が、他の者の口を借りてただの物語的な興味に埋没していった印象が拭い去れない。

タラップのシーンを挟んで、「陸に降りたくない」が「陸に降りられない」に変わっていくお話自体は確かに(ニガいしやりきれないけど)面白い。そしてラストシーンも、爆死をしようが陸に上がって悲惨な運命を辿ろうが(前向きなハッピーエンドにするには、タラップの経過を省くか、さらに決定的な転機を挿入しなければならないかと思われる)、ちゃんと1900の精神世界に入り、彼のこれまでの人生においての精神的な経緯がちゃんと描かれていれば少なくとも違和感は感じられなかったと思う。果たして精神世界はちゃんと描かれていただろうか?

面白おかしかったりホロリとさせたりするエピソードはふんだんに盛り込まれている。きっと彼はそんなエピソードを経験して、外の世界と共鳴したり不協和音を奏でざるを得なかったりしただろう。少なくとも「陸に降りたくなかった」場面までは。しかしどうだろう?彼はタラップを踏む決意をした時とその前とで人間が変化をきたしているように見えただろうか?彼の目には生涯の友人マックスがどう写っていたか、何故「試合」であんなに痛烈な仕打ちをしかか、あの女の子がどう彼の人生に関わってきたか、自分にはその他諸々も含めほとんど理解できなかった(最後の独白だけではとても足りない)。本来ならエピソードを通して彼の精神的な揺れが見えなければならないところを、エピソードの奇異な面白さを物語ることに終始しているとしか思えない。

結局監督は原作に惚れこんで物語の中に入っていくことなどなかったのだと思う。 でなければあんな第三者から見た船の爆破がラストを飾ることはなかったハズ。爆破直前で話を終わらせるべきだと思うし、どうして船の内部にカメラを置いて、彼がどんな表情で最期を迎えたかを一緒に見届けてあげなかったのだろう、と思う。それどころかモリコーネの甘いメロディに乗せて、マックスの感傷的な思い出話の中に閉じ込めてしまっているところに、もはやこの監督の神経を疑わざるを得ない。だから見終わった後の印象は、感傷的なお話を語るための道具として、1900が存在していた、どうしてもこう考えざるを得ない。船の爆破と『ニューシネマ・パラダイス』での映画館の崩壊、自分の頭の中ではこの2つのシーンが二重写しになって見えた。

「いい話があって、それを話す相手がいる限り、人生は捨てたものではない」。こんな何気ないコトバも、監督の手にかかると「いい話」が個人の慰みの道具に思えてくるから不思議だ。さらにはその「いい話」の中に「実り」がなくても一向に構わないのだろう。たしかに非現実的で空想的な話ではあるが、優れたおとぎ話の中にはちゃんと「実り」は存在するのだと、そしておとぎ話を語り継ぐものは、その「実り」もちゃんと伝えることに意義があると、僭越ながらもこの監督に教えてあげたい。

いつもながらの背景の人間の薄っぺらさ、一人のセリフを多数の人間が分割して言ってるような違和感。いつものトルナトーレ節については、今回はいちいちあげつらうつもりはありません。ただ今回の評点のほとんどは、監督に不当な扱いを受けた1900自身と俳優の演技に捧げていると付け加えておきます。

(評価:★2)

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