[コメント] フリークス(1932/米)
子供のころ、父親が福祉の仕事をしていた関係で知的障害者と接する機会が多かった。常に左腕が不規則に震え続けていたり、首を斜め45度に傾けていないとヒステリーを起こしたり、口がずっと半開きだったり……月に一度か二度、我が家にそういうお兄さんやお姉さんがやって来て、私の遊び相手になった。知障者を普通の家庭に外泊させるという訓練だったのだそうだ。
あるとき、私は自分が彼らとは違う人間であることに気付いた。実感として、私は彼らを、ある年代に置き去りにしたのだと思った。彼らは死ぬまで体躯の大きな4歳児のままであり、私は世の中の多くの人間がそうであるように、反抗期や思春期を経て大人になった。私は、いつの間にか自分が健常者であることを理解していた。
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少し前、テレビである若者のドキュメンタリーを見た。彼の父親はミゼットプロレスラーで、彼もまた父に倣いプロレスを目指すという話だった。180センチを超える立派な体格の若者は、自分の腰までしか身長のない父親を心の底から尊敬していて、「親父は本当に強い。自分はまだまだ親父には敵わない」と誇らしげに語っていた。
日本からミゼットプロレスが消滅してゆくのとまるで入れ替わるように、メディアには四肢欠損の若者が登場した。ミゼットプロレスを好奇の衆目から隠そうとしたこの国は、いともすんなりと乙武洋匡という身体障害者を受け入れた。たぶんそれは、ミゼットプロレスラーが広義の意味でコメディアンであり、乙武くんが理知的なイケメンだったからだ。小人のレスラーは職を失い、乙武くんは莫大な印税と自分の居場所を得た。
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人間の尊厳とはなんだろうか。
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忘れてはいけないのは、先天性の身体障害者・欠損者はその身体であることについて「何ひとつ失ってはいない」ということだ。彼らにとってその身体は、人生を生き抜くための唯一無二の「乗り物」であり「道具」であり「存在そのもの」だ。だから誰が何を言おうが、その身体をどう使うかなんてのは彼らの自由であり、その自由は、誰にも侵されてはならない。
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『フリークス』という映画を見た。凄い映画だった。
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イモムシの男は、自分が首を器用に使ってタバコに火を点けて見せることで、それを見た人間が感嘆の声を上げることを知っていただろう。自分の身体を使って誰かを喜ばせたいというショーマン・シップに、健常者も障害者も関係ないはずだ。彼がその行為を見せて人の驚く顔が見たいと思ったとき、誰にもそれを止める権利はない。
吹き荒ぶ嵐の中、迫真の演技を見せる彼らは「自覚的」に自分たちの個性を捉え、表現している。それは長い映画の歴史の中で、彼ら以外の演者が誰ひとり成し得なかった(そして今後も成し得ないだろう)スーパースペシャルな表現だ。このシーンは、文句なしでむちゃくちゃに恐い。『フリークス』は凄い映画だ。彼らの熱演を、自己表現を、フィルムに焼き付けたトッド・ブラウニングの仕事は、遠い未来まで、人類に彼らの声を届け続ける。
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私は、ミゼットプロレスの復活を望んでいる。幼少のころから知的障害者と多く接してきた私にとって、脳に障害のない身体障害者なんてのは、普通に気のいいおっちゃんに他ならない。そんな普通に気のいいおっちゃんたちが何だかよく解らない理由でどんどん職場と生き甲斐を奪われ続けている現状を見るにつけ、私は思う。人間の尊厳とはなんだろうか。
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私が青春時代に好きだったロックバンドは叫んでいた。
「産まれたからには生きてやる!」
リングでしか、命を燃やせない男だっている。
人間の尊厳とは、なんだろうか。
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