[コメント] 大怪獣バラン(1958/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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東宝が造り出したゴジラ、アンギラス、ラドンに続いての4体目の(実はその間に『獣人雪男』があるが)怪獣、バランを主題に取った作品。元々は本作はアメリカのTV映画として作られた作品だけに、原タイトルは『東洋の怪物・大怪獣バラン』 となっていた(ちなみにその企画はボツとなり純国産の劇場用作品として公開された経緯がある)。
怪獣ものとしての本作は地味な存在として見られることが多いが、このバランという怪獣はいくつかエポック・メイキングな部分も持つ。一つはここで初めて怪獣を“神”となし、祈る姿が描かれたこと。後々東宝特撮で多用される暗黒舞踏のルーツはここだろう。
そしてもう一つ。怪獣を完全に闇の存在として描いたこと。
今まではゴジラであれ、ラドンであれ、その存在は“災厄”を表していたのに対し、ここでは東北のまだ文明が行き届いていない小さな村で祀られていた荒ぶる神だった。これは劇中で「迷信だ」と一言で断定され、現れると、今度はあっという間に恐竜にされてしまう。闇は科学の光によって照らされねばならない。それによって謎は明らかにされねばならない。と言う意思がそこにはあるように思えるのだが、実はそれこそが以降の怪獣映画を呪縛し続ける結果となる。
怪獣はあくまでネガティブな存在であり、ポジティブな存在(つまり人間側の勝手な理屈)により、消されねばならない存在となってしまった。
実際、本作では湖の中に封じ込め続けていればさほどの問題が無かったのを、科学の力で消し去らねばならないと考えた人間側の理屈でバランは勝手に目を覚まさせられ、自分の身を守ろうとして逃げると、執拗に追いかけてその存在を抹消しようとする。考えてみればこれ程勝手な事もあるまいに。以降、その考えは完全に浸透したようで、闇から生まれ出る怪獣は悪であり、それは殺さねばならない。と言う感じで話は固定化されてしまったような気がする。
それが時代の流れだったんだ。だが、怪獣映画の持つ可能性を著しく狭めてもしまった…
重要なキー・ポイントとなった作品なのだが、やっぱり地味なんだよな。まあ、実際こういう思いを持たせたのは前半部分だけで、後半はひたすらバランに向けて爆発が起こるだけの単調な展開になってたし。存在感もゴジラと較べるとあまりにも薄い。今だったらエコロジーの観点から全く違った存在として描かれることも可能だろうが、やっぱり地味すぎて本作そのもののリメイクは望めそうもない(『大巨獣ガッパ』でやったと言えなくもないか)。
ちなみにこのバラン、金子修介によってアンギラス、バラゴンと共に復活させられる予定だった。その為の造形まで作られていたのに、東宝サイドでボツを出し、結果バランとアンギラスはモスラとキングギドラとなり、『大怪獣総攻撃』が作られることになった。ちょっと勿体なかったな。日の目の当たらないこのバランも目立てたものを…
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