[コメント] アギーレ 神の怒り(1972/独)
下流を虚ろな目で見つめ、ぼんやり、ゆっくり、確実に死んでいく人間たちと対照的に、アギーレは流れの先ではなく、むしろギラついた目で上流を睨み続ける。帰りたい人間たちが上流へ、アギーレが下流へ意識を向けるのが自然だろうが、この逆転こそがミソ。静寂の中、「流れ」と「視線」の方向性が、「神への叛逆」を饒舌に物語る。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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エルドラドへの到着とは、アギーレにとって「運命」との戦いにおける勝利、神への叛逆の達成を意味する。その勝利は、自らが神になることを意味する。「運命=流れ」に抗うことこそがアギーレの目的であり、だからこそ、彼は「下流=運命に流される先」を見ない。その方向性は、彼にとっての敗北を意味する。
この意思の方向性は、「南下」したのち、「北上」してスペイン領を奪う(※)意思を表明することで駄目押し的に示唆される。しかし彼は、着実に「流される」。
猿の神になったが、結果的には「戦い」に敗れ、棒立ちのまま、世界の縮図たる筏の上で果てる。嗤うでも憐れむでもなく怒るでもなく見つめるカメラは、神の視線そのものである。
※ 『地獄の黙示録』は、「遡上」して最奥部にいたったのち、「下流」へと向かう。これがアギーレの宿願だったのではないか。なお、『フィツカラルド』は未見です。
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