[コメント] オール・アバウト・マイ・マザー(1999/仏=スペイン)
映画を見終った人むけのレビューです。
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母と息子との一種鏡像的な愛情関係が息子の事故死によって絶たれた地点で、突然なにかに裏切られたような、映画そのものに突き放されたような感覚にとらわれしばらく途方に暮れてしまったのは僕自身がセクシャリティとしては「男性」だからなのか。しかし、母-息子という絆が「はからずも」破られることによって浮遊した母性が、ゲイ、クィア、アルツハイマー、HIVキャリアといった小文字の「他者」へと拡散-浸透していくときから、作品は切なくも華やかな生彩を帯びはじめる。映像や音楽の完璧な調和、古今のゲイ文学や女流文学のたくみな引用や臓器移植問題にともなう脳死問題などの「現代的」テーマへの言及も怠らない目配りのよさなど、アルモドバルの確信犯的な美学の貫徹を見る思い。
本作品は、エディプス的葛藤を迂回した母-息子関係の拡散(父の「非」在)から、フェミニズムやジェンダー・スタディーズによる洗礼を受けた、マイノリティとしての他者の複数化(ゲイ、クィア等)へ、という流れのもと思想史的な前提をしっかりとふまえた作品であると言ってよいだろうが、そうした作品を受容する側のポジショニングの問題、実存的なレヴェルにおける受容のあり方を問うポジショニングの問題にも目を向けた場合、どういうことが見えてくるのかふと考えてみたくなった。
もしたとえば、作品を鑑賞する人間が男性で、僕のような全くのヘテロセクシャルだった場合、彼はおそらく認識のレヴェルにおいては本作品の価値を理解できるかも知れない。しかしそのくせ実存的なレヴェルにおいて必ずしも手放しの肯定性のもとに本作品を受容することができないとき、彼は作品に対する賞賛の言葉を、認識(理解)と実感(受容)のズレによる歯切れの悪さ、あるいは居心地の悪さを胸に秘めたまま発することになるかも知れない。よくよく考えてみると、ヘテロセクシャルの男性は、というかヘテロセクシャルの男性だけが、「女であるために/女を演じる/すべての女性たち」へと捧げられた本作品から「疎外」されうる人種だということがわかってくる。
ましてやもしたとえば仮に、彼がゲイの男性(つまり「女になった男」)に恋人を奪われたヘテロセクシャルの男性だった場合はどうだろうか。つまり、ゲイの男性を通じて恋人がゲイに目覚めてしまった場合。このとき、彼は父から母を奪い返さんとするエディプスの申し子よろしく、恋人を奪った相手へとあくなき戦いを演ずることはもはやできない。なぜなら、父性なるものがメタファーとしての社会性を象徴する超越的なものだとすれば、彼が戦うべき対象とは、原理的に超越性を否定し、それを拡散・複数化させてしまうものだからだ。つまりもはや彼は戦うべき何者も持たない。恋人を奪われた苦しみを解消すべき手段から見放されたまま、途方に暮れるしかないだろう。それでもなお、「オール・アバウト・マイ・マザー」の作品中で「たとえ父さんがどんな人間だったとしても、僕は父さんを許す」と述べた主人公の息子エステバンよろしく、彼は恋人を、そして恋人を奪った相手を「許す」ことができるだろうか。あるいは本作品を実存的なレヴェルで受容することはできるのだろうか。
こうして提出された図式は、男女間の関係性に根ざした近代的恋愛観と、ゲイ(性の多様性)に根ざしたポストモダニックな性愛観という対立に、ほぼ正確に対応する。ここで、近代的恋愛観が何ら自明のものでなく、歴史的に形成された恣意的・制度的なものであることを指摘するのはたやすいだろう。しかし、性の多様性(差異)を賞賛し尊重するのなら、差異を差異のままに引き受ける、みずからの実存をおびやかすことになるかも知れない差異を、それが差異であるがゆえに不断に引き受け続ける尋常でない覚悟を必要とするのではないか、といえば問題をあまりにも普遍化しすぎだろうか。しかしたとえば、前述したゲイの男性に恋人を奪われた彼のような人間に、それができるのだろうか?
あるいは、これは「オール・アバウト・マイ・マザー」に限ったことではないが、性愛やジェンダーをめぐる言説のあり方に何かしらの苛立ちを僕が感じるのだとすれば、こういうポジショニングの問題に無自覚なまま、俗耳に入りやすい文化相対主義の美名のもとに性の多様性を賛美するヘテロセクシャルの男性論者たちへの、僕自身の近親憎悪的な怒りの感情によるものなのかも知れない。
しかしこうした批判を踏まえてそれでもなお、この作品が持っている、マイノリティであることの刻苦や悲壮をも含めて「ヤー(然り)」という言葉で包み込んでしまうポジティヴィティは、やや感傷的にすぎるきらいはあるけれども、積極的に評価されるべきだろう。この美しい作品への違和感にここまでこだわってしまうのも、ヘテロセクシャルであるはずの僕のような人間がそういう物言いで本作品をほめてしまうその言説のありよう、そこに何か妙なわだかまりがあって、とりあえずそれについて何か言っておかなければ、という奇妙な義務感にとらわれてしまうからだ。受容レヴェルでのこうした違和感を抱きながらも、それでもこの作品は美しい、少なくともそれだけは間違いのない事実だ。
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