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[コメント] 去年マリエンバートで(1961/仏=伊)

ゆったりと移動撮影で撮られたバロック建築の城、何度も繰り返されるポエティックなナレーション・・・・・・この冒頭シーンから別世界に引き込まれ、脳内思考は深まるばかり・・・・・・。
Keita

 映画に限らず小説でも絵画でも当てはまることだが、作品を論じるときには作り手の趣旨を完全に理解する必要はなく、受け手が自由に解釈をして構わないのである。この映画はまさに自由に解釈をするのにうってつけの映画だと思う。アラン・レネは男と女が会っていたことを前提に演出をしていたのに対し、ロブ・グリエの方は会っていないことを前提として物語を構築したという。そうして完成した作品に答えを求めることは酷であり、バロック建築とパイプオルガンとモノクロ映像が交錯する迷宮世界の美に酔いながら、自由に解釈をするために自らの脳内も迷宮世界にしてしまえば良いのだ。雰囲気作りのためにアルコールを少し含ませながらの鑑賞も悪くない。

 ユダヤ人虐待の記憶を辿る『夜と霧』、広島原爆投下の記憶を辿る『二十四時間の情事』と、記憶を映画のテーマにしてきたレネ作品として、「記憶と忘却」というテーマを追求するのも良し。去年女と会ったことを覚えている男だが、細部までは覚えていないような節もある。自らの記憶を信じ続ける男だが、実際自分の記憶を完全に信じてよいものだろうか。人は都合の良いように記憶を婉曲することも出来る。ある人の脳内で起こっている“記憶”というものは、他人としては容易に信じてよいものなのだろうか。映画の中では“記憶の不確かさ”を描いているようにも思える。・・・・・・こういった勝手な思考をするのも面白い。

 異様に整った庭園やバロック建築の美術や、パイプオルガンで奏でられる怪しい空気を発する音楽に身を任せ、全てを男の夢と解釈し、「夢と現実」というテーマを追求するも良し。アルコールで自らを少し宙に浮いたような状態にして鑑賞したならば、より一層夢想に暮れることができるだろう。夢と現実の境界線がどこにあるのか、この映画の場合はそれすら定かではない。同じく定かではない過去と現在の境界線。「過去と現在」というテーマから時について思考するのも良しだ。

 この映画を決して難解とは呼びたくない。観客に委ねられた部分が多い、非常に自由な映画と呼びたい。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)イライザー7[*] くたー[*] 24[*] moot ina ゑぎ

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