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[コメント] 千と千尋の神隠し(2001/日)

色んな意味で『もののけ姫』と対を成す作品だと思う。
サスケ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「物語」としてはファンタジー作品のオーソドックスなスタイルを踏襲しながら、その内容とテーマは完全に「宮崎駿」の色が出ている、と思う。

・物語について

物語の大筋は、古いファンタジーによくある、所謂「行きて帰りし物語」 となっている。それは主人公千尋が異世界に迷い込み、そこから抜け出す物語。作中のあの「トンネル」は、多くの児童向けファンタジー文学と同じく、「ファンタジー」と「現実世界」を隔てる「扉」であり、千尋はそのトンネルを通って温泉街に迷い込み、そしてまたトンネルを通って現実へと帰る。 そういう意味でこの作品は「児童向けファンタジー」としてはド基本のストーリーラインを持っていると言える。 そしてこの物語の「ファンタジー世界」は、殊に「日本」的な趣を持っている。

温泉街は、どこか無国籍風でありながらしかし同時にノスタルジックで、明治・大正時代の街並を連想させる。昔から、日本という国は、外国の文化を吸収し、自分達の都合の良いように創り変え、それを文化としてしまう国だった。だからこそ作中の奇妙な街並は、「日本」風である、と僕は感じた。 そしてその「ファンタジー世界」としての温泉街には、実に様々なキャラクターが登場する。日本独自の神観念・・・山、川、そして全ての「もの」に神は宿る、というそれに基づいたであろう彼等は、奇妙で、しかし親しみ易いデザインで描かれている。 作中で「八百万の神々が疲れを癒しに来る温泉街」と湯婆婆は言っていたが、僕はそれを世話する役目の湯婆婆や釜爺、そして父役なんかも一種の「神」なのではないか、と感じた。元々日本では「神」と「妖怪」の区別は曖昧で、全ての妖怪は神たり得る可能性を持っている。信仰を得られた妖怪は神となり、信仰を得られない神は妖怪となる。そういう意味では、湯婆婆も、釜爺も、或いはススワタリ達も、「神」なのではないかだろうか? 物語後半、銭婆は千に言う。「私と湯婆婆はふたりで一人前」と。これはつまり、湯婆婆と銭婆は、ふたり合わせて「銭湯」の神様なんだ、という事を言っているのではないだろうか?(ここはらいてふさんのレビューからヒントを得ました。すいません、面識もないのに) 銭湯とは、こじつけてみれば「銭を払って安らぎを買う」ものだ。つまり金にがめつい湯婆婆は「銭を払う」という面を象徴し、穏やかな銭婆は「安らぎを与える」という面を象徴するのではないだろうか(考え過ぎでしょうか?)。

また、この「世界」の中では「ことば」が重要視される。「いやだ」「帰りたい」と「言って」しまったら終わりだ、とハクは千尋に言い、そして千尋は逆に「ここで働かせて下さい」と「言い」続ける事でこの世界に居場所を得る。また「個人」を定義する「ことば」である「名前」を千尋は奪われ、それ故千尋は「千尋」であることを見失いそうになり、「ハク」は「名前」を失くしてしまったが故に、自分の本質を失ってしまっている。これらは紛れも無く日本の「言霊」に基づいたものであると思われる。物語のクライマックスでは、千尋に本当の名前を「呼ば」れたハクは、その瞬間に「自分」が何ものであるかを取り戻す。「ことば」によって縛られていたハクは、しかし「ことば」によって再び解き放たれる。「ことば」が「行動」を支配する、という事はつまり、「行動」は「ことば」によって可能性が開ける、という事に帰結するのではないか。

そういう意味で、「カオナシ」はとても興味深い。他人の「ことば」を借りてしか自分の意思を伝えられず、また他人の「ことば」に依存すると図々しくも荒々しくもなる。このような部分は誰にでもあるのではないのだろうか?また考えようによっては、存在を定義する「名前」でさえも「カオ」が「ナイ」、つまり「ナイ」という事で「存在」するという皮肉に満ちたものだ。案外この「カオナシ」も、「カオ」を「なくす」前は名の知れた神だったのかも知れない。

そして、このような日本的な要素を盛り込んだ「ファンタジー世界」で、千尋は「生きる力」を得る。

ここで、オーソドックスな「ファンタジー作品」と大きく違うのは、「帰って」きた千尋の姿だろう。本来のファンタジーでは「非現実」の体験を得た主人公は得てして「成長」するものだが、千尋はこの「非現実」の体験を通して決して「成長」はしていない。ラスト、トンネルを抜ける時に母の手に縋り、不安そうな表情で歩く千尋の姿は冒頭のそれと微塵も変化した様子は無い。千尋は確かに「非現実世界」で何かを学んだのが、それを糧にして大きく成長するまでには至っていないのだ。しかし、僕はこれで良いと思う。10歳の子どもにとっては、「親」が傍にいない時に現れる「力」と、傍にいる「親」に依存する事とは必ずしも矛盾しないと思うし、何より千尋は「これから」現実の中で「成長」していかなければならないからだ。物語は終わっても、千尋の人生はこれで完成した訳ではない。温泉街での体験はその成長の糧となるべきだ、と思う。

・テーマについて

前作、「もののけ姫」で、宮崎駿は「テーマ」主体の「物語」を提示した。結果、テーマそのものは分かり易く、ストレートに示されたが、物語としてはとても曖昧で、「おはなし」の中の問題はまるで解決しないままに終わり、見る人によっては「え?それで?」と感じてしまったと思う。(僕は一回めに見た時、実はそう思ってしまった。何回か見る内にとても好きな映画にはなったけれど)「言いたい事」をはっきり言ったからこそ、当時引退宣言をしたのであろう、と僕は邪推している。しかし、今回の「千と千尋の神隠し」は、前作とは逆に「物語」主体で、「テーマ」は奥に隠されている。言ってみればそれは「もののけ姫」の対象年齢が高く、「千と千尋の神隠し」の対象年齢が低いという、その差であるのかも知れないが。 とにかく本作は、「テーマ」を少し噛み砕き、「物語」の中に巧妙に織り込んでいる。確かに「テーマ」は少し分かりにくくなっているかも知れないが、「物語」としては完璧に完成されていると思うのだ。

少なくとも、千尋と同年代の子どもはこれを見て、自分を千尋に同一化する事で、千尋が見たもの、感じたものを同じ様に見、感じることができると思う。この映画を、自分がこれから成長していく中でのひとつの「糧」としていけると思う。それこそ、千尋と同じ様に。

そしてこの物語は、それだけで充分に素晴らしい作品であると言えるのではないだろうか。

(評価:★5)

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