[コメント] ゴーストワールド(2000/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ナルシスト監督による、陰湿なヒロインいじめ。徹底的に悪意しか感じられない。まるで、かつてこんなタイプの女性にふられた個人的な恨みを、巧みに屈折した表現で吐露しているようだ。
一番最初のエピソードで、主人公が車椅子生活になった知人を陰で嘲笑しているシーン、この他人に対する想像力とヒューマニズムの欠落は、人間として根本的に許されない行為。つまり、「フィクション」として、最終的に主人公が何らかの報いを受ける事は当然の流れである。
「アーティスト」とやらに「本当に」なりたかったのなら、他人の扱いなどは関係なく、自分から学校に向かうべきだ。「趣味」で描いている自慰的な行為が認められ、シンデレラのようにちやほやと持ち上げられるのでなければイヤ、と言う考え方に未来はない。
極めつけに「レースとリボンで私は特別な女の子になる」と言う歌。自分の周りの全てを否定する事で、そこら辺にありふれていない「特別な何か」になる「はず」だったのが、「現実そのものを否定」する結果となって追いつめられて行く。観ている側に優しい気持ちでもあれば、この辺りでヒロインに対し、「同情」の気持ちも湧いてくるだろう。(このシーンの「コンピューターステーション」のTシャツの意味を知っている方は教えていただきたい。)
ヒロインの周りにいる人物は、全てどこにでもいる、ありふれた、普通の人々だ。とりたてて異様な振る舞いや、過剰な反応の人間はいない。こんな風に、自分にとって「現実」がつまらなく、都合が悪い事は至極当たり前。その都合の悪い現実を変える為に、新しい別の「場所」に向かう事は別に構わない。しかし、それならば、なぜわざわざあの老人のエピソードを丁寧に何度も駆使してまでも、カントクはヒロインを『現実にはないバス』に乗せたのか?
彼女が自分を変えずもせずに(もとい、何も変える必要はない。それまでの彼女のままで、なんでも新しい発見が出来るはずだ)、現実に向かって働きかけもせずに、向かう先はどこだ?「わー、あなたって、素敵、素敵」と、誰もが無条件に何もかもを認めて受け入れてくれるパラダイスな場所か?
つまり、「お前みたいな、自意識過剰で、物事を否定ばかりして、自分からは何もしようとしていない女は、現実にはないバスに乗ってどこにもない場所に行ってしまえ」と言う「カントクの意図」の作品である、としか、どうあっても読み取る事は出来ない。ふざけるなと言いたい。この監督の思惑は、女の人生の可能性をとことん否定している。
しかもあくまでも自分(監督)(=彼氏)は、かわいそうな被害者として描かれている。ヒロインは、最後、彼(=監督)の事だけは否定しない。彼とわざわざ和解しながらも、別の場所に去って行く、と言うラストの展開には、彼女の行き先が現実の世界ならば、とても違和感を感じる。二人の初めてのセックスが、木馬によって戯画化される事にも、監督の、二人の関係に対する冷めた目線を感じ、「ああ、かつての自分の失敗への自己弁護なのかもなあ」とあきれた。確信犯的にヒロインを傷つけながら、巧妙に自分自身への非難は受けないような作品の作り方に、この監督の間違った方向への能力の高さと、同時に能力の限界を感じる。ヒロインと、その女優がかわいそうだ。これが21歳以上の女性に対してならまだしも、10代かそこらの子供に、この様な姑息なスタイルで憎悪とサディズムを発揮する幼稚な表現者は嫌いである。
一度、このサイトの他のみなさんの、この映画に対する、心優しい前向きな解釈をしてくれているレビューを読んで、カントクにはおのれの心根の貧しさを心底反省していただきたい。そして、ここまで物事をわかって作っているのなら、本当の意味で、この未熟で、怠惰で、間違いだらけの少女が生きていく苦しみを和らげるテーマを示す事も出来るのに、しなかった事に改めて、彼に対する怒りを感じる。ちなみに、未熟で、怠惰で、間違いだらけであると言う事は、人として否定される事ではない。ただ人が、生きていく上での苦しみは、出来るだけ避けられるべきだと思う。
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