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[コメント] 風の谷のナウシカ(1984/日)

ユパ様が「また村が一つ死んだ」と言って立ち去った後の字幕が消えるの早くて、いつも読み切れない。何て書いてあるか知ってるから別にいいけど。
NAMIhichi

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







以下は、ナウシカが大好きな人は見過ごしてくれれば、と思うような内容。けなされたら傷つく、という人は読まない方がいいかも。

十年以上、私にとって『風の谷のナウシカ』は『天空の城ラピュタ』とならんで完璧な作品だった。

となりのトトロ』や『魔女の宅急便』を観た時は、もちろん作品自体はみな面白いし素晴らしいのだけど、宮崎アニメは一作ごとにつまらなくなると正直思った。それは、個人的にはプロの声優を使わないのが気にくわなかったり、何となく作品が観客に媚びてるような気がしたからだが、それだけ「ナウシカ」と「ラピュタ」が素晴らしく、完成度の高い作品という証拠でもあった。

特に「ナウシカ」は、人を殺すヒロイン(姫)というキャラクターに大きなショックを受け、ラストによってもたらされるカタルシスが大きいために、頻繁に観てこの作品に飽きたくないという気持があった。ここ何年かはTVでやっても意識して観ないようにしていた(だいたいTVでやりすぎだし)。

ところが久しぶりに観ようと思って、ビデオを探して観てみたら、何となくナウシカが鼻について仕方がない。同時にそういうふうに感じる自分にショックを受けた。さらに言えばクシャナの方がよっぽど人間らしくて好感が持てる。物語が始まってから、幼い時のシーンも含めて、ナウシカがする全てのヒロイックな言動は、ラストへつながる予定調和に過ぎず、彼女だけが選ばれた人間であると誇示しているのを、黙って見なければならない気づまりさを感じた(選ばれた人間、もしくは自己犠牲というのは「ラピュタ」にも共通する要素だけど、「ラピュタ」は『未来少年コナン』の焼き直しとか、色々言われてもそれを補ってあまりある面白さがあると思う)。

彼女は危険なところに自分から飛び込んで行く。それは彼女は救世主みたいなものだから話の流れから仕方がないとしても、それに感動して一緒に酔えなくなってしまった以上、疑問がわいてくる。なぜ彼女は最後あのような選択をしたのか。

あの最後の行動を、「風の谷」を守るために、または腐海を焼き尽くすことは人類の絶滅につながるから、彼女はオームの中に飛び込んで行った、だから彼女の行為は純粋で尊い信念に基づいた勇気ある美しいものなのだと受けいれたとしても、なぜ彼女は蘇るのか(メシア復活?)。

これらの疑問は「ナウシカ」が好きだという人に聞いてみると、簡単に答えが得られる。オームの子どもを返したぐらいでは暴走がおさまらないから、自分も一緒に降りて行った、つまり贖罪。さらにナウシカはオームとは特別な関係にある女の子だから、つまり「青き衣」だから蘇った。私もずっとそう思っていた。

だが、ラスト近くで、ナウシカが「オームの群れに子どもを返す」と言うと、「しかし、君も死ぬぞ」と言われるシーンがある。そして、実際に彼女がオームの子どもと共に群れへと降りていき、暴走が止まると、風の谷の人々は暴走が止まったことに驚いている。つまり、客観的に考えて、オームの子どもとナウシカが群れに入ったところで、暴走が止まるとはそこにいる誰もが考えていなかったことになる。つまり、普通に考えると、彼女の行為は不可解なものとなる。

仮に、この作品の中で、ナウシカが自分は特別な運命に定められていると、みずから実感する場面があれば、このラストに疑問はない。自分の運命を自覚して、オームの暴走を止められるという確信を持って、命を投げ出したというのであれば、暴走をくい止め、更に彼女が復活するということにある種の感動があってもおかしくはない。でも彼女にそんな自覚があったとは思えない。彼女は「青き衣」の言い伝えすら知らなかったし、「私にユパ様の手伝いができればいいのに」と思っている。作品からは、単なる「風の谷」の姫にすぎず、ただ動物と心が通い合う不思議な少女、そして誰も知らないけど実は特別な運命を担う少女なのよという印象しか与えられない(見逃しているのかもしれないけど)。彼女自身が自分の運命について何らかの確信を得ていないという前提でラストを観ると、素朴な疑問がわいてくる。

あれが贖罪ならば、なぜ他の誰でもない彼女が、そうしなければならないのか。そうすることでオームの怒りをおさめられると思っての自己犠牲なら、なぜ自分にはそれができると思ったのか。神の啓示でもあったのか。贖罪のつもりなら、自分を人類代表のように思う気持が理解できないし、オームの怒りをおさめられる確信がないのに飛び込んだならば、彼女には自殺願望に似た厭世観でもあったのかと腑に落ちない。「風の谷」を守る為に、絶対に暴走を止めなければ、という一心で身を投じたのであれば、やはり自分ならできるかも知れないという思い上がりが彼女にはあったと考えてしまう。いずれにせよ、理由のはっきりしない自己犠牲を美しいと感じることはできない。一見、美しく感動的であるように見える彼女の行為は、不可解であるがゆえに、自分は特別だという思いこみによって行われた究極の自己陶酔的行為にすら見えてくる(そんな訳ないのはもちろん分ったうえで)。

セリフを覚えるくらいこの作品を観たけれど、今までラストでこんな違和感を抱くことなどなかった。ただナウシカは優しく、心の強いヒロインだと思って感動していた。また、最後に「その者、青き衣をまといて・・・」という言い伝えの導入部分があるために、何か大きな意志に裏付けされた奇跡なのだという印象を与えられ、考えることを放棄していたような気がする。

この作品の最後について、あれ以外はありえないし、彼女の行為は必要以上に美化されていないという納得できる説明を聞いたら、私はこの作品を再び好きになれると思う(ナウシカというキャラそのものはもう好きになれないけど)。でも、もしこのナウシカのヒロイズムが、そのまま宮崎監督の美学としてイコールで結ばれるなら、私はその陶酔感について行けない。同じ美学なら豚の美学の方が好きだ。

ただ、この作品を、自然と人間の共存をテーマとしたものと限定して考えると、絶滅の危機に直面してなお愚かな行為をする切実な人間の姿を、独特の世界観でよく描いていると思う。環境保護は人間のエゴのあらわれだとよく言われる。地球には、人間や動物が絶滅したあとも惑星としての寿命が残されているのだから、自然を大切にとか地球を守れとか地球に優しくとか、それらは結局、そうしないと自分たち人間がやばいから、という自分勝手な考えに根ざしている。「人間の世界をとりもどす」という思い上がり、それを否定するようなナウシカの行為。できれば、ナウシカがオームの暴走を止めたその後の話を私は知りたいと思う。

この映画に思い入れがあったぶん、評価が変わったのは自分なりにショックだったので、ついめずらしく真面目に考えてしまった。大好きな映画を観なおすのには勇気がいることを知った。

原作は読んだことがなく、あくまでもこの作品を観ただけの感想にすぎない(原作の力を借りなければ理解できないというのはそれ自体問題がある)ので、もしこれを読んで、気を悪くされた方がいたらごめんなさい。

(評価:★3)

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